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オーシャンニューズレター

第204号(2009.02.05発行)

第204号(2009.02.05 発行)

達摩大師と海のシルクロード

[KEYWORDS] 菩提達磨/インド洋/海洋交易
元東京大学教授、アジア文化研究所(チェンナイ、インド)理事◆神部 勉

中国禅宗の祖、達摩大師がインドから中国に至るのにどのような海路をたどったか詳らかではないが、ここに海のシルクロードをたどった可能性について一説を提示したい。
インドと中国との間には、西暦紀元前からインド洋を横断する海洋交易が盛んであった。
達摩大師もそのコースをたどったに違いない。
大師を記念する新プロジェクトがインドの地にいま計画されている。

歴史的背景

達摩大師(菩提達摩)は6世紀初め頃インドから中国に渡来し、大乗仏教をもたらしたインド僧である。嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)(中国・河南省)での菩提達摩の「面壁九年」の故事は有名である。それを淵源として中国禅宗が起り、達摩は禅宗の初祖として尊崇されている。記録では、達摩大師は南インドの香至国(こうしこく)(カンチプラム。現代のチェンナイ近辺)の王子として生れたと記され、晩年にインドから海路で中国南部の広州に至ったのは、西暦520年(あるいは527年)とされている。大師が途中どのようなコースをたどったかは詳らかではないが、ここに海のシルクロードの試論を述べてみたい。
中国の歴史書によると菩提達摩がインドを発ったときの様子が次のように書かれている。「達摩は国王に会って、東地(中国)に行く決意を告げた。王は、国に留まるよう達摩を説得した。しかし菩提達摩の意志は決まっていた。そこで、王は将来の帰国を願うとともに、大舶を用意し、親戚・臣属を率いて、達摩を海岸の港まで送った。このとき涙のない者はなかったという」。約3年の航海を経て、菩提達摩が広州に到着すると、広州地方長官が達摩を迎えた。時は梁の普通元年(520)で、これを武帝に奏聞すると、帝は大師を都の建康(今の南京)に迎える勅を下した。このあと次の有名な問答があったとされている。
―武帝曰く「朕は寺を造り、経を写す。何の功徳か有る?」。達摩曰く「無功徳」。
菩提達摩の生地は香至と記されている。唐の時代には、香至はKang-zhiと発音されていたと思われる。そこで香至国は南インドのKanchi-puramに違いないと考えられている(-puramは町の意である)。カンチプラムは南インドのタミルナド州の古都で、菩提達摩の時代にはパッラバ王朝の都があったところである。パッラバ朝は海洋国家で、西は地中海諸国、東は中国、シャム、フィリピン等とも交易していたという。達摩はカンチプラムから外港マーマッラプラムに至り、そこから出港したと思われる。
中国は2千年以上前の前漢の時代から外洋船を擁して東南アジア、インド、中東・地中海と海洋交易を行っていた。往復には4年かかったといわれている。3世紀の中国では、外洋船は崑崙船(こんろんせん)の名で知られていた(崑崙は東南アジア一帯をさした)。インド洋での交易船は舷側に腕木を(安定化のため)備えていた図が残っている。南インドの港町にはチャイナ仏塔がある。これは中国王の要請で(唐時代)、交易のために訪れた中国人仏教徒のために建てられたものという。また、カンチプラムは高級絹織物の産地として現在もインドではよく知られている。僧侶も絹を使っていた記録がある。生糸は中国から主に輸入されたであろうが、桑も南インドで栽培されていた。

法顕法師の海路

法顕法師の海路

多くの僧侶が中国からインドへ、またインドから中国へと往来した。最も有名な玄奘の旅(629-645)は往復とも陸路であったが、それより昔の法顕(ほっけん)※の旅(399-412)では行きは陸路、帰りは海路をとった。なぜ法顕が帰路に海路を選んだかは書かれてないが、推測すれば、法顕の年齢はすでにその時70歳を越えていて、峻険な山岳路を避けたかったのかもしれない。法顕の帰路は、まずガンジス河の河口の港町で約2年間逗留して待機し商人の大船に乗った。冬の初めの信風(季節風)を得て、昼夜14日で師子国(今のスリランカ島)に至った。この時期には北東からの季節風があることは知られている。スリランカでも約2年間滞在した後、200人あまりの乗った商人の大船で出発した。最初は信風があったが、3日目からは大風の中、13昼夜である島のほとりに着いた。ニコバル群島の一つだったと推定されている。そこで水漏れを修理し、さらに航海を続けて、90日(9、10日とも)ばかりで、マラッカ海峡を過ぎてスマトラかジャワの港に到着し、そこに5カ月間逗留した。地図の黒の実線は法顕がたどった行路である。
さらに別の商人に従って、中国に向けて乗った大船にもやはり200人ばかりが乗っていた。大きさを推定すれば、今の電車を横に2両、下に1両結合させたくらいの大きさだっただろうか。ジャワ島の仏教遺跡ボロブドゥールには大船のレリーフがあり、そんな船を想像させてくれる。50日分の食料を用意して出発したが、途中、暴風雨にあって漂流し、80日あまりを経て着いた所が、中国山東省の南岸であった。以上が達摩の百年前の時代にあった航海である。達摩の時代には、インド洋のモンスーンを利用する横断航海は貿易商人の間でよく知られていたと思われる。少なくとも法顕にスリランカ廻りの海路を勧めた人がいたはずである。現代の観測データによれば、5月から9月にかけてインド洋では東のマレー半島向きのモンスーン風がある。

達磨大師の海路

菩提達磨は、南インドの港マーマッラプラムを発って、まずスリランカに向ったであろう。そこでインド洋横断の大航海に備え、東に向かう季節風を待つのに1~2カ月を要したであろう。インド洋を横断してスマトラかジャワのどこかの港に到達するのに、さらに1~2カ月かかったと思われる。故国カンチプラムを発ってから半年近かったろうが、もっと経っていたかもしれない。現地の王族にもてなされたであろうし、雨季安居(うきあんご)(僧侶の夏季逗留)もしたであろう。次の航海の準備、風待ち、あるいは交易のために何カ所かを移動して半年近くを過ごしたかもしれない。準備万端整ったところで、いよいよ中国広州に向けて出帆し、2カ月くらいを要して到着したであろう。全行程に2年で十分だったろうが、約3年の航海との記録は、丸3年でなく、足かけ3年と解釈もできよう。 
達摩大師は南インドの香至国に生れ、中国の河南省の熊耳山(ゆうじさん)を終焉の安息地とすることになった。そこには現在、空相寺(くうそうじ)なる寺院があって大師を偲ぶことができるが、生地とされる古都カンチプラムの方には大師を偲ばせるものは何もない。カンチプラムにはかつて仏教遺跡が多くあったが、時代の盛衰でほとんど消失して(させられて)しまって、現在はヒンドゥ教の聖地になっている。しかし古都の寺院には今でも多くの痕跡を見出だすことができる。
古都カンチプラムに達磨大師を偲ぶ記念碑があればと、誰しも願うところであろう。現在、筆者を含め有志の間で、インドのアジア文化研究所(チェンナイ市)の所有するカンチプラムの土地に、達磨大師を記念する施設を建立するプロジェクトが計画されている。(了)

【参考文献】法顕伝・宋雲行紀(長沢和俊訳注, 東洋文庫194, 平凡社, 1971).
※  法顕(ほっけん,335頃-423頃)=4、5世紀の中国の僧。同志4人とインドへ出発、陸路6年かけ到着した。経典をたずさえ、海路にて苦難を重ねて法顕のみが帰国できた。1名がインド残留、2名が山岳部で客死、残りは平野部に至る前に陸路帰国した。旅行記『法顕伝』、別名『仏国記』は貴重な史料となっている。

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