Ocean Newsletter
第190号(2008.07.05発行)
- (社)海洋産業研究会常務理事、海洋政策研究財団理事◆中原裕幸
- NTTワールドエンジニアリングマリン(株)代表取締役社長◆高瀬充弘
- 歴史小説家◆植松三十里(みどり)
- ニューズレター編集代表(東京大学大学院理学系研究科教授・副研究科長)◆山形俊男
知られざる幕府海軍総裁・矢田堀景蔵
[KEYWORDS] 長崎海軍伝習所/海事教育/沼津兵学校歴史小説家◆植松三十里(みどり)
幕府海軍総裁というと、勝海舟か榎本武揚だと誤解されることが多い。
しかし幕府崩壊時、勝は陸軍総裁で、榎本は海軍の副総裁。
海軍総裁は矢田堀景蔵という人物だった。しかし、このふたりの狭間にあって、矢田堀の存在は、あまりに省みられない。日本海軍の礎を築いた男について紹介したい。
1.歴史に埋もれた海軍総裁

矢田堀景蔵
『回天艦長甲賀源吾傅』より
幕府海軍総裁というと、勝海舟か榎本武揚だと誤解されることが多い。しかし幕府崩壊時、勝は陸軍総裁で、榎本は海軍の副総裁。海軍総裁は矢田堀景蔵という人物だった。しかし、このふたりの狭間にあって、矢田堀の存在は、あまりに省みられない。
矢田堀景蔵は文政2(1829)年、下級幕臣の三男として江戸に生まれ、幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)を、優秀な成績で卒業。そのまま学問所に留まり、25歳で昌平黌の甲府分校、徽典館(きてんかん)に、学頭として1年間赴任した。
ちょうどこの年、ペリー艦隊が来航し、昌平黌の学長だった林大学頭が、幕府全権として日米和親条約を調印。昌平黌というと漢学の古典を教えていただけと思われがちだが、中国からの輸入書物や個別情報をもとに、海外事情の研究もしていた。そのため開国を機に、大学頭のみならず、若き教授方や優秀な卒業生たちが、次々と外交や海防の分野に抜擢された。
矢田堀もそのひとりで、安政2(1855)年、長崎に海軍伝習所が開かれるや、生徒監として赴任した。長崎海軍伝習所は日本初の洋式海軍学校で、オランダ人を教官団に迎え、オランダから寄贈された外輪軍艦、観光丸を練習艦として、幕府が開校したのだった。生徒監という立場は学生長で、同役に勝海舟がいた。また矢田堀が長崎に同行した従者のひとりが、7歳下の榎本武揚だった。
当時、中国では第2次阿片戦争が勃発し、幕府は欧米からの侵略の不安を感じていた。そのため、わずか1年半に満たない伝習で、矢田堀以下16人の成績優秀者が江戸に呼び戻され、日本人教官による軍艦操練所を、築地に開校した。矢田堀は教授方頭取をつとめ、この時から幕府海軍の中枢として、海防実務と海軍教育の両面をになうことになった。
2.外交を背後から支える役割
アメリカは日米和親条約締結後、ハリスを下田に駐在させ、貿易を始めるための通商条約を幕府に求め続けていた。ハリスの交渉相手は、矢田堀の学問所時代の先輩にあたる岩瀬忠震(ただなり)だった。岩瀬が下田に向かう際、あるいはハリスが江戸に出る際に、矢田堀は観光丸で送迎をつとめている。これは非常に短期間で、まがりなりにも海軍を創設したことで、日本人の潜在的な力を示す効果があったのかもしれない。
その後、日英通商条約調印の際には、イギリス艦隊が王室御用船だった小型軍艦を、幕府に寄贈した。これを矢田堀が受け取り、初めて触れるスクリュー船を難なく操船して、イギリス人を感嘆させたことが、イギリス側の記録に残っている。
だが国内では攘夷斬りと称して、たびたび外国人殺傷事件が起き、そのつど各国は賠償を求めて艦隊を差し向け、幕府に圧力をかけた。特に生麦事件を機に、文久3(1863)年5月には江戸湾で、あわやイギリス艦隊との開戦という事態にまで発展し、幕府海軍は、これを向かえ討つ体制を整えた。結局、戦闘は回避されたものの、薄氷を踏むような外交が続いた。
そんな中で、矢田堀は一隻、また一隻と軍艦を増やし、乗員を育てた。だが海軍の充実と反比例するように、幕府は崩壊への坂道を下っていった。さまざまな矛盾が吹き出し、ある時期を境に、矢田堀は幕府権力へのこだわりを捨てた気配がある。古い体制の限界があったのだろう。以降は明らかに、幕府海軍ではなく、諸藩とひとつになった日本海軍の組織づくりを、視野に入れ始めた。
3.鴻鵠の志の意味

日本で最初の蒸気軍艦・観光丸(東京大学教養学部図書館蔵)
慶応4年(1868)の幕府崩壊に際しては、矢田堀は数え年40歳で海軍総裁の地位についた。冒頭で述べた通り、この時に陸軍総裁だったのが勝海舟だ。徳川家の恭順策に従って、勝は江戸城開城責任者、矢田堀は官軍への艦隊引き渡し責任者を命じられた。
だが海軍副総裁となった榎本武揚は、7年間のオランダ留学から帰国したばかりで、幕府崩壊を受け入れられず、徹底抗戦を主張。矢田堀や勝との間で、大論争を交わしたことが記録にある。そして矢田堀が官軍側との交渉で上陸していた隙に、榎本は艦隊を乗っ取って脱走した。その後、榎本は箱館戦争を戦ったものの、悪天候などで次々と軍艦を失って降伏。入牢を経て、敵方だった新政府に出仕し、後に大臣職まで歴任した。
箱館戦争に関しては、武士の意地を通したということで、榎本の歴史的評価は低くはない。反対に矢田堀は、戦争に反対したという理由で、武士らしくないとみなされてしまった。
その後、徳川家の移封に従って、矢田堀は静岡に移住。沼津兵学校という陸軍学校を開校し、静岡学問所の充実にも尽力した。軍艦操練所での経験を生かし、旧幕府海軍の優秀な人材を教授方に据えて、自身は事務局をつとめたのだ。沼津兵学校も静岡学問所も、全国に先駆けた画期的な学校だった。しかし新政府は、徳川家が力を盛り返すことを嫌い、教授陣の引き抜きにかかった。最後は廃藩置県により、両校ともわずか数年で、藩校としての役割を終えた。
矢田堀自身も、新政府に出仕を命じられた。だが勝や榎本のように、器用に生きられなかった。そして矢田堀鴻(こう)と改名。「燕雀いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」から取ったことは明らかだ。以降は一官吏として、海軍にも教育にも関わりない部署を、毎年のようにたらい回しにされている。明治20年に脳溢血で他界したが、葬儀には大勢の若者たちが参列したという。矢田堀が築地の軍艦操練所や沼津兵学校で育てた技術者たちだ。彼らは鉄道や造船に従事し、明治の文明開化を支える人材となった。
幕府海軍が築いた基盤が、明治政府に引き継がれ、日本海軍として発展していったことは疑いない。ただ明治政府は、前政権である幕府を否定したために、矢田堀の業績は省みられない。鴻鵠の志は、今も理解されないままである。(了)
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