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オーシャンニューズレター

第180号(2008.02.05発行)

ニューズレター第180号(2008.02.05 発行)

漂着する陶磁器

アジア水中考古学研究所副理事長◆野上建紀

人間の営みの痕跡は陸上だけでなく海にも残されている。
船で運ばれる途中で沈んだ陶磁器もその一つである。
沈んだ陶磁器が開発による環境の変化などによって大量に打ち上げられる海岸がある。
海底の遺跡の破壊は陸上の遺跡と比べて目に見えることは少なく、漂着する陶磁器がそうした見えない海底の変化をわれわれに教えてくれている。
これまで多くの海底遺跡が人知れず破壊されている。
これを防ぐためにも海底遺跡のデータベース作成が急務である。

海の道と陶磁器

陶磁器のように重くてかさばるものを大量に遠くへ運ぶためには、船が用いられた。陶磁器そのものが商品として運ばれることもあったし、大きな壷などのように容器として運ばれることもあった。地中海で発見される古代の沈没船ではアンフォラとよばれる土器の壷が大量に発見される。ワインやオリーブ油を積み込んで航海の途中に沈んだのであろう。中世になると東アジアや東南アジアの陶磁器が大量にインド洋を渡って西方へ運ばれている。エジプトのカイロの旧市街であるフスタート遺跡では中国の白磁や青磁、染付が大量に発見される。「陶磁の道」、「海のシルクロード」とよばれた海路を経てもたらされたものである。近世になると日本の陶磁器も海を越えて運ばれる。その担い手はアジアの船だけではない。シンガポール沖やケープタウン沖で沈没したオランダ船から有田焼が引き揚げられている。これら陶磁器は海を介した交易や交流を示す証左である。人間の営みの痕跡は陸上だけではなく、海にも残されている。

海岸に打ち上げられる陶磁器

岡垣海岸に漂着した伊万里焼。(添田征止氏採集)
岡垣海岸に漂着した伊万里焼。(添田征止氏採集)
芦屋沖に沈む伊万里焼。(山本祐司氏撮影)
芦屋沖に沈む伊万里焼。(山本祐司氏撮影)

日本の近海でも有田焼は発見されている。江戸時代の有田焼は船で全国津々浦々に運ばれていたからである。中でも響灘に面した福岡県北部の芦屋町や岡垣町の海岸ではこれまで大量の陶磁器が打ち上げられている。大半は江戸時代中期以降の有田焼をはじめとした「伊万里焼」である。江戸時代、有田焼を積み出した港が伊万里であったため、有田やその周辺で焼かれた磁器を総称して「伊万里(焼)」とよんでいた。
芦屋町や岡垣町の海岸で打ち上げられる伊万里焼は、伊万里の港から船積みされて、玄界灘を渡って運ばれる途中に何らかの理由で沈んだものであろう。当時、全国の大半の市場は伊万里港からみて東にあり、船で運ばれる国内向けの伊万里焼の大半は玄界灘を経由する計算となる。それでは玄界灘の沿岸ではどこでもこのように伊万里焼が大量に打ち上げられるのかと言えばそうではなく、この浜辺ほど伊万里焼が打ち上げられるところはない。そして、海岸だけでなく、その沖合の海底でも伊万里焼が発見される。2004年の秋に潜水調査を行った時も水深23メートルの海底の岩礁にひっそりと伊万里焼が沈んでいた。

筑前商人と伊万里焼

伊万里焼がこの海域や海岸で大量に発見される理由の一つは、江戸時代の伊万里焼と芦屋の商人の特別な関係にあった。特に江戸時代中期以降、芦屋の商人をはじめとした筑前商人は伊万里で陶磁器を仕入れ、「旅行(たびゆき)」と称して、全国津々浦々に売り捌いていたのである。『伊万里歳時記』には江戸時代後期の天保年間頃、伊万里港から積み出された約31万俵の陶磁器の内、約20万俵を筑前商人が扱ったと記されている。細かい数字の信憑性はともかく莫大な量の陶磁器を筑前商人が扱っていたことは確かである。芦屋海岸の近くに神武天皇社という神社がある。その参道の両脇に大きな石灯籠があるが、それらは伊万里の陶器商人が寄進したものである。伊万里と芦屋の結びつきの強さを物語っている。江戸時代中期以降、芦屋商人が盛んに活動していた頃、伊万里焼を積んだ船が数多く芦屋に出入りしていた。船が頻繁に出入りする分、沈んだ船や積荷が多くなったのであろう。浜に打ち上げられる陶磁器の年代は筑前商人が盛んに活動した時期と合致するのである。

打ち上げられる理由

それでは、どうしてそれらが「今」、打ち上げられるのであろうか。海に沈んで長期間、海底をさまよい続けて浜に打ち上げられたものであれば、摩耗して表面がかすれたり、角がとれて丸くなったりするものである。しかし、岡垣海岸に打ち上げられる陶磁器はそうした摩耗の痕跡がないものが多く見られる。つまり、長い間、陶磁器が海底に安定した状態にあったものが、それほど古くない時期に掘り出され、移動して打ち上げられている可能性が高いのである。
近年になって打ち上げられるようになった理由は今なおはっきりしないが、考えられる理由はいくつかある。岡垣海岸はかつて射爆撃場であった。戦後、進駐してきた米軍や自衛隊が長年、射爆撃場として使用した。もちろん立入り禁止エリアであった。そして、1978年になってようやく返還されたが、その頃から岡垣海岸をはじめ、芦屋海岸や若松海岸などで古銭や陶磁器の漂着が確認されるようになった。射爆撃場の返還と浜に打ち上げられる陶磁器は何らかの関係がありそうである。射爆撃場として利用されていた頃はその沖合も漁業営業制限区域となっていて、立ち入りが制限されていたが、返還以後、この海域での底曵き漁や砂採りが盛んになった。そのため、海底にあった陶磁器が人為的に掘り出された可能性が考えられる。実際に地元の漁師は漁網に陶磁器がかかった経験を語る。
あるいは全国的な現象としても知られる砂浜の消失による可能性もある。芦屋町と岡垣町の間の海岸も明らかに砂浜が細り、いわゆる浜崖が形成されているところがある。防波堤など漁港の整備により潮の流れが変わったこともその原因の一つであろうし、この海域に直接流れ込む遠賀川の河口堰や護岸工事も原因となっているのであろう。いろいろな要因がからまって砂浜の浸食と堆砂のバランスが崩れた結果、砂浜の消失を引き起こし、海岸線近くに埋まっていた陶磁器が洗い出されていった可能性が考えられる。底曵き漁や砂採りによる海底の爪痕も大きいが、砂浜の消失の影響もまた広く大きい。いずれにしても海底の砂に埋もれていた遺跡は壊滅的な破壊を受けることになる。浜に流れ着く陶磁器、そうした海のロマンに似つかわしくない現実があるようである。漂着する陶磁器はその見えない海底の変化に関するシグナルをわれわれに送り続けている。
人知れず破壊を受けている海底遺跡は岡垣海岸だけではない。ある遺跡は開発によって埋め立てられ、また、ある遺跡は防波堤などの建設によって壊されている。海底遺跡に対する関心の低さが破壊を進めている。わが国には海底遺跡の正確なデータベースすらないのである。わが国の水中考古学が諸外国に比べて大きく遅れている所以でもある。水中文化遺産の保護を目的としてユネスコが採択した「水中文化遺産保護条約」も近い将来、発効することになろう。海底遺跡をはじめとした水中文化遺産の保護は世界で共有しなければならない課題の一つである。わが国の取り組みの一つとして海底遺跡のデータベース作成は急務である。(了)

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