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オーシャンニューズレター

第180号(2008.02.05発行)

ニューズレター第180号(2008.02.05 発行)

医学・バイオにも直結する 海洋生物学の最前線基地・臨海実験所

東京大学大学院理学系研究科 教授、附属臨海実験所 所長◆赤坂甲治

海の生物の研究というと、魚の養殖技術かウナギの回遊の研究を思い浮かべる人が多いかもしれない。
しかし、医学・バイオテクノロジーに役立つ成果が海洋生物から続出していることは、日本ではほとんど認識されていない。本稿では、海洋生物研究の最前線基地である臨海実験所の歴史、現在の活動、海洋生物の有用性について紹介することにより、海という宝の山を国民の皆様にご理解いただき、多くの若い研究者が参入するきっかけとしたい。

臨海実験所の歴史

明治の初期、東京帝国大学には多数のお雇い外国人がおり、その中には博物学者もいた。江ノ島に観光に訪れた彼らは、土産物屋を見て驚いた。見たこともない貝殻や動物がたくさんあったのである。彼らは、手に入れたいくつもの土産物を本国に持ち帰り、それらを新種として学術誌に報告している。その結果、相模湾には極めて多様な生物が棲息することが世界に知れ渡ることになる。彼らの一人は「(江ノ島の)土産物屋を探し回れば、一流の博物館に匹敵するほどの海産動物のコレクションを得ることができる」と紀行文に書き残している※1。その江ノ島に海洋生物の調査施設を構えたのは、東京大学動物学教室初代教授のエドワード・モース(大森貝塚の発見者として有名)である。しかし、江ノ島の土産物は、三浦半島南端の三崎の漁師が採集したものであることがわかり、本格的な臨海実験所は三崎に設立されることになった。これが東京帝国大学臨海実験所(通称:三崎臨海実験所)であり、世界で最も歴史のある臨海実験所の一つとして現在に至っている。
三崎臨海実験所には、創設以来、国内外から多くの研究者が集まり、多数の新種が発見され、系統分類・進化の理解が進んだ。また、研究器具の発展もあり、多様な動物の特徴を活かした実験動物学が花開いた。その後、全国の国立大学に、17の理学部附属臨海実験所が設立され、海洋基礎生物学の研究・教育拠点として活用されてきた。三崎臨海実験所だけでも、シンヤスコープ(偏光顕微鏡)の発明(井上信也)、ウニを使った受精機構(団ジーン)、細胞骨格(毛利秀雄)、ヒトデ卵を使った卵成熟機構(金谷晴夫)など生命科学の歴史に残る重要な発見、発明は枚挙に暇がない。しかし、マウスやハエなどのモデル実験動物の普及により、海産動物は徐々に使われなくなっていった。採集しなければならず、産卵期も限定されているため、短期間で成果を求められる現代のシステムに合わなくなったからである。海産動物の研究者は日本では激減し、20世紀後期には臨海実験所の役割は終わったといわれるようになった。

医学にも役立つ海洋生物研究

表
モデル動物を用いた研究により、生命現象の共通機構が次々と明らかになると、生命科学は次の標的を探し始めた。「ヒトはどこから来たのか?」「多様な生物を作り出す機構はなにか?」。現在では、さまざまな生物のゲノムプロジェクトが進められており、「ウニの遺伝子の数はヒトよりも少し多く、ヒトとほぼ同じ遺伝子セットを持つ」(2006年11月米国科学誌サイエンス)は驚きをもって迎え入れられた。すべての生物は海から生まれ進化してきた。海の多様な動物は、系統分類学でいう動物門(脊索動物門、節足動物門、軟体動物門など)のほとんどすべてをカバーする。これらの多様な動物は「進化」という人類共通の知的好奇心の対象を解明するために欠かすことのできない存在であり、比較ゲノムや進化発生学は、次世代の生命科学の標的として、今後ますます発展する分野と予想される。
欧米では臨海実験所のスタッフ・外来研究者から、毎年のようにノーベル医学・生理学賞受賞者を輩出していることは、日本ではほとんどは知られていない。がん研究と直結する細胞周期機構はウニとハマグリの研究から、記憶のメカニズムは軟体動物のアメフラシ、視覚と体内時計の機構はカブトガニ、神経伝達機構はイカ、移植組織の拒絶反応にも関わる細胞性免疫はヒトデの体腔細胞の研究により明らかにされた。また、最近の生命科学に欠かせない蛍光タンパク質はクラゲから単離されたものであり、米国ウッズホール海洋生物研究所の下村脩博士が発見した。
医学にも役立つ海洋生物研究
ナショナルバイオリソースプロジェクトに採択されたニッポンウミシダ。海藻に見えるが脳を持ち、活発に動く。進化と再生研究に活躍。
遺伝子治療に役立つDNA配列や、生体内の状態を再現することが難しかった血管細胞の培養を可能にする技術は、ウニを用いた私たちの研究の産物である(右表*参照)。多様な海洋生物も、ヒトと共通の機構で生命活動を営んでおり、その単純さと特殊さを活かすことにより、人類の健康と繁栄をもたらす重要な発見につながるのである。欧米では、海の底知れぬ富の開発を、国策として、また民間レベルでも推進している。欧米に重要な発見と、そこから派生する技術・特許を独占されないようにするためには、わが国においても、世界トップレベルの海洋基礎生物学の拠点を形成し、戦略的重点研究を展開するとともに、海洋生物の研究に携わる人材の育成を行うべきである。
明るい兆しは、日本のナショナルバイオリソースプロジェクト(NBRP)として、平成19年に京都大学・筑波大学下田臨海実験センターのホヤと、東京大学三崎臨海実験所のウミシダが海洋動物として初めて選定されたことである。ホヤは、ヒトが属す脊椎動物に近く、脊椎動物の進化を理解する上で重要である。ウミシダも脊椎動物に近い最も原始的な棘皮動物に属し、脳などの発達した神経系を持つため、脳の起源と進化を理解するために重要な動物である。また、再生能力が極めて強いため、再生機構の解明と再生医療への応用が期待されている。NBRPは日本のオリジナルな生物リソースを世界に向けて発信する国家プロジェクトであり、日本政府が海洋基礎生物学の重要性を理解しはじめ、推進する方向に向かっていることは大変喜ばしいことである。

生命教育の場としての臨海実験所

日本財団助成による市民向け自然観察会。磯での動物分類と生態の講習風景。
日本財団助成による市民向け自然観察会。磯での動物分類と生態の講習風景。

臨海実験所は多様な生物に触れるための前線基地でもある。生命が軽んじられる傾向や、温暖化やオゾン層の破壊などの環境悪化は、人間が自然から隔離されて育ち、生活していることが一つの大きな原因と考えられる。老若男女、文系理系を問わず、生命を生み出し、多様な生物が生息する海を見ることにより、人類は地球生命体の一員であることを認識し、環境保全の意識を高める必要がある。幸い、この3年間、三崎臨海実験所は日本財団から助成を受け、一般市民対象の自然観察会を年に5回開催してきた。定員をはるかに超える応募者があり、参加者の評判も大変高い。しかし、臨海実験所の教職員は、多忙な大学教育・研究の時間を割いてボランティアとして指導にあたっており、負担は大きい。一般市民のニーズに応えるためには、生命教育の指導者を確保する必要があり、そのためには政府・民間からの助成が不可欠である。(了)

※1 ルートウィヒ・デーデルライン(Ludwig H.P. Doederlein)(1855~1936独)
1879(明治12)年~1881年に東大医学部の博物学教師として来日、日本で海産動物を収集した分類学者。ストラスブール動物博物館(仏)にその膨大な収集標本が保存されている。ミュンヘンにある国立動物学博物館館長、ドイツ動物学会会長といった要職を歴任した。

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