Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第165号(2007.06.20発行)

第165号(2007.06.20 発行)

地球流転

作家◆立松和平

南極には地球上の淡水の氷の七十パーセントが集まっているという。
地球の温暖化で心配されるのは、その氷が溶けてしまわないかということだ。
私たちは地球の気候変動によって絶滅し、あるいは生き延びて栄えた多くの生物を知っている。
地球上で万物は流転する。私たち人類も、この大いなる流転にさらされている。


地球の荒々しい姿

南極にいってから、万物は流転しているのだということを改めて認識した。山の上に迷い子石と呼ばれる大岩があり、古代文明の失われた象徴のようにいわれたり、ノアの方舟の時の大洪水の証拠だといわれたり、はたまた天狗の投げ岩だといわれたりしている。そのことで妙に納得したりもしてきたのだ。

だが、地球の周期をもっと広い幅で考えれば、一目瞭然なのである。氷河期には地球上に氷河が縦横に走っていて、私たちの持つ時間の尺度から見ればあまりに遠大な時が必要だったにせよ、山を削って大岩など簡単に運ぶことができた。間氷期になって氷河が消滅すれば、思いもかけないところに岩が残されている。氷河の存在を考えなければ、謎が残るだけである。そんなことでも、現代人にとっては大いなる想像力が必要なのだ。

研究者にとっては常識ということでも、市井で生活する私などにとっては、想像力を必要とすることはたくさんある。氷河はその文字の通り、河である。南極で広大な氷原の中の氷河を見れば想像力などなくても一回でわかるのだが、ビルの中の快適な空間で生活していればそうはいかない。氷河は流転する万物の象徴ともいうべき存在だ。

南極観測船「しらせ」のヘリコプターで昭和基地の周辺を飛びまわると、しらせ氷河などの荒々しい光景に触することができる。氷の中にクレバスが走り、地上を歩くしかない人間などとても生きられないところである。ただ恐ろしい光景だとしか見ていなければ、恐怖心が残ってそれで終了である。しかし、流れていく氷の河なのだと理解すれば、引っぱられて氷に裂け目ができ、流れはじめてその流れはしだいに激しくなると納得できる。山の中の源流からはじまる川と同じである。水の流れはこの目でありありと見ることができるが、氷河の流れは静止しているようにさえ見える。計測すれば、流れていることを知るのは実に簡単なことだ。流れる氷の河のある南極は、山紫水明の私たちの山河となんら変わりがない。つまり、万物は流転をつづけてやむことがないということだ。

火山がマグマを噴出し、あるいは流れる水が土砂を堆積させ、岩石をつくる。この頑丈な岩も、日中は灼熱の太陽にあぶられ夜は冷えて少しずつ砂になっていく。結局のところサハラ砂漠もそうやってできたのである。地球は流転しつづけている。

温暖化は何をもたらすのだろうか

最高で四千メートルの厚さになる南極氷床も、年間三センチほど降り積もる雪によって形成された。南極では他に水分を供給するものはないのである。年間三センチの降雪も、圧力がかかれば数ミリになるが、時を蓄積させれば四千メートルになる。つまり、南極氷床は日々成長をつづけているということになるのだ。

できてしまった氷も、静かに固まって動かないのではない。重力の法則に逆らわず、下へ下へと流れる。つまり氷は循環しているのだ。氷の底には凍っていない湖があり、その湖もさまよえるごとく動いているとのことだが、取り囲む氷が流転しているのに氷が静止しているなどあり得ないことだ。


南極観測50周年にあたる今年の1月、著者は極地研究所の招聘で、毛利衛氏・今井通子氏とともに南極を訪問した。その模様についてはご自身のホームページでも雄大な写真とともに紹介されている(http://www.tatematsu-wahei.co.jp/home.html)。なお、南極観測50年については、http://polaris.nipr.ac.jp/を参照いただきたい。

南極大陸は雪が蓄積したものだから、淡水の固まりなのだ。地球上の淡水の氷の七十パーセントが南極に集まっているのだが、私たちの心配は化学石油燃料を燃やす人間活動による地球温暖化で、その氷が溶けてしまわないかということだ。その危機意識はすでに多くの人の心の中に潜んでいて、私は南極から帰ってくると何度も質問を受けた。専門の研究者が結論を出せないことを、たかだか十日間ぐらい南極にいったところで門外漢の私が語れるものではない。しかし、事はそれほど単純ではないことは理解できた。

海流や気流は、地球が一方にたまった熱を分解させようとする作用なのである。海流や気流が今まで通りに働かなくなれば、地球は気候大変動にみまわれる。そのことではたくさんの仮説がある。

温暖化によって氷が溶ければ、海水の塩分濃度が薄くなる。海水は凍る時、比重の重い塩分を外に排出する。低温によっても比重が重くなった塩分は、深海に沈んで深層海流を押し上げ海流を走らせてきた。塩分濃度が薄くなれば深層海流の駆動力が弱くなり、海流がうまく働かなくなる。赤道の熱が分散されなくなり、熱帯は灼熱になり、その他の地域は凍りつく。地球温暖化が、むしろ極寒をもたらすというのだ。この仮説にも説得力があるから恐ろしい。つまり、地球は生物が住むのにふさわしい星ではなくなるのかもしれない。

もちろん私たちは地球の気候変動によって絶滅し、あるいは生き延びて栄えた多くの生物を知っている。このことでも地球上で万物は流転するということである。私たち人類からすれば、地球上で生きているこの今も、大いなる流転にさらされているということだ。(了)

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