Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第160号(2007.04.05発行)

第160号(2007.4.5 発行)

海とSF作品

小説家、日本SF作家クラブ会長◆谷 甲州

海洋SFと周辺作品の違いを確認し、それぞれを定義することで新たな楽しみ方を探る。
さらに海洋SFが持つ「制約」のいくつかを取りあげて、それを巧妙に使った作品を紹介する。

そもそも海洋SFとはなにか

海を舞台にしたSFは多い。ヴェルヌの『海底二万海里』から藤崎慎吾の『ハイドゥナン』まで、それこそ枚挙にいとまがない。一体いくつあるのか、と思って「地球・海洋SF文庫」※にアクセスしてみた。リストアップされていた作品数は予想外に多く、全部で四六九点にものぼっている。

ただし名前があがっているのは「地球・海洋SF」であって、純然たる「海洋SF」とはかぎらない。本格派のSFだが舞台は海に限定されない作品―たとえば小松左京の『日本沈没』も、このリストにはふくまれている。たしかに深海潜水艇「わだつみ」が海底乱泥流と遭遇する場面は印象的だったが、この作品を海洋SFの範疇に入れてしまうのは抵抗がある。海洋SFと称するのであれば、やはりストーリーの主な舞台は海であってほしい。その点からすると『日本沈没』は地球科学SF、ストーリーの大半が海と関わっている『ハイドゥナン』は海洋SFになるのではないか。

では物語の大部分が海で展開すれば海洋SFになるのか、といわれそうだが現実はそう単純ではない。上の例とは逆に、すぐれた海洋小説だがSF色は希薄な作品も存在するからだ。最新鋭の潜水艦が登場するからといって、『海底二万海里』とクランシーの『レッド・オクトーバーを追え』を同列にあつかっていいものかどうか。普通は前者をSF、後者をハイテク軍事スリラーと分類するのではないか。

ここで疑問がでてくる。SFとそうではない作品は、どこで区別するのか。そもそも区別が必要なのか。定義にこだわりすぎて、作品を楽しむ余裕をなくすことはないのか。当事者にその気はなくても、この種の議論は不毛な堂々めぐりに陥る危険がある。極端な話「こんなものはSFではない」という決めつけが横行する可能性さえある。

SFの制約と自由度

無論そういった領域に、ここで踏みこむ気はない。ただSFは他のジャンルと違って、制約が多い点は指摘しておきたい。さらに「先行作品によって蓄積されたルール」も存在する。後続の作品はこの制約をクリアし、ルールにしたがった形で物語を成立させなければならない。その条件を満たしていないと、SFにする意味がないからだ。

おなじことは、海洋SFについてもいえる。当然だ。海洋SFは、SFのサブジャンルなのだから。先行作品を意識することなしに、後続の作品を生みだすことはできない。こう書けば『海底二万海里』と『レッド・オクトーバーを追え』の違いは明白だろう。『海底―』で描かれた科学技術の先見性や、海洋科学に対する洞察を『レッド―』では踏襲しているか。前提にするだけではなく、先行作品としての『海底―』をこえているかどうか。答は否だ。『レッド―』はすぐれた海洋小説だが(刊行当時、寝食を忘れて読みふけったことを白状しておく)、海洋SFとは呼べない。

こう書くと面倒そうな印象を受けるが、制約やルールは味方につけるとこれほど心強いものはない。外からみると近寄りがたい壁でしかないが、内側に入ってしまえば強力な楯に変化する。しかもこの制約やルールは、作者の意図にあわせて形をかえることも可能だ。SFには、それだけの自由度があるからだ。

一例をあげる。海水は塩辛く、飲用に適さない。わざわざ書くまでもないことだが、これもひとつの制約といえる。そしてこの制約のせいで、記憶に残る多くの漂流記が生まれた。フィクションとノンフィクションを問わず漂流者たちは渇きに苦しみ、生存のためにあらゆる努力をしてきた。

それでは海水を飲むことができれば、どんな漂流記が生まれるのか。小川一水の『漂った男』(『老ヴォールの惑星』収録の中編)は、この制約を逆手にとった名作だった。無人の惑星に不時着し、漂流をしいられた飛行士がいた。ただちに救難活動が開始されるが飛行士の発見までには時間がかかることが予想された。惑星表面のほとんどが海で覆われているものだから、捜索範囲が8億平方キロにもおよんでいたのだ。

それにもかかわらず、飛行士は死をまぬがれた。地球の海と違って、海水を飲むことができたからだ。しかも海水の栄養価は高く、飢えることもなかった。だがそれは、悲劇のはじまりでもあった。死ぬこともできないまま、ひたすら救助を待つしかないからだ。発狂の恐怖に耐えながら、飛行士の孤独な漂流がはじまる。

少しばかり変則的だが、SFの持つ自由度は理解いただけたかと思う。

海洋SFと海洋小説をわけるもの

それでは海洋SFの主流をなす作品群には、どのような制約があるのか。そしてその制約を、名作SFはどのようにクリアしてきたのか。あるいは逆手にとって利用したのか。

例として、潜水艦の運用をあげる。潜水艦は制約の多いハードウェアで、海中の視野がきわめて悪いという弱点がある。『海底二万海里』のノーチラス号は強力なライトで海中を照らしていたが、これで視認できるのは条件のいいときでも数十メートル先までだろう。現実的には音波による探査以外に、海中の様子を探る方法はない。

『ハイドゥナン』ではこの制約を受けいれつつ、臨場感あふれる海中探査システムを構築している。音波による探査と仮想現実を組みあわせて、海中の光景を「みせて」くれるのだ。陸上とかわらない感覚で、海底地形が浮かびあがる様子は感動的ですらあった。ただし色彩までは再現できないために、表示される立体映像はモノクロになる。

海中の視野に関する制約を、技術的にクリアした作品は他にもある。逆に制約を受けいれて、その範囲内でストーリーが展開する作品群もある。一連の潜水艦映画―『眼下の敵』や『Uボート』では、ソナーと聴音機のみが敵の動向を知る手段だった。つまり制約を受けいれることで、独特の緊迫感を生みだしているのだ。そして制約を逸脱するか否かが、海洋SFと海洋小説をわける境界と考えられる。海洋SFに課せられた制約は多い。たとえば深海における強大な水圧、それにもかかわらず変化しない海水の体積、そして浮力。これらを組み合わせれば、過去に例のないユニークな海洋SFがうまれるかもしれない。(了)


※ 地球・海洋SF文庫 http://chikyu-to-umi.com/SF.HTM
●日本SF作家クラブ http://www.sfwj.or.jp/

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