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オーシャンニューズレター

第159号(2007.03.20発行)

第159号(2007.3.20 発行)

読者からの投稿 孤島・青ヶ島の視線から領海・EEZを眺めると

ライター、千葉大学非常勤講師、元・東京都青ヶ島村助役◆菅田正昭

青ヶ島は八丈島から南へ約67キロの絶海に浮かぶ。
いまでこそEEZの概念とともにわが国にとって地理的に大きな意味をもつ存在となっているが、
かつて島は国からも厄介な存在として見放されてきた。
そうした長い苦難の時代にあっても、島を守ろうとした島民たちがいたからこそ今の青ヶ島がある。
小さな島の管理の重要性を忘れてはならない。

鳥も通わぬ島の、そのまた南にある島

「鳥も通わぬ...」と謳われた八丈島の、さらに南へ約67キロの絶海に浮かぶ青ヶ島は、人口200人を割る全国最小村(東京都青ヶ島村)である。わたしはその孤島に昭和46年5月から49年1月までと、平成2年9月から5年7月までの2回、住んだことがある。一度目は役場職員(庶務民生係)として、二度目は青ヶ島村助役としての生活だった。

現在の青ヶ島はあくまでも天候次第という条件付きだが、ヘリと定期船がそれぞれ1日1便あって、さすが東京都の離島である。しかし、昭和47年の夏に村営連絡船が就航するまでは運が悪いと1ヵ月以上も外部との接触が絶たれるという超不便な島だった。そして、そんな孤島苦を外部へ発信しようものなら、そういう島に住んでいること自体があたかも"犯罪"であるかのように思われたりした。

なぜなら都会に住む合理論的思考を持つ人たちからは「無駄金を浪費するだけの厄介な」離島と思われ続けてきたからである。極端には、無人島になってしまえ、とまで言われてきたのである。しかし、その後のEEZ概念の普及で、青ヶ島の地理上の価値が認識されたおかげで、今はそういう声もほとんど聞かれなくなった。

もし青ヶ島が無人島だったら、今日の日本のEEZの八丈島以南の海域は、存在しなかったかもしれないのである。

国から忘れられた島を、わが国につなぎとめたものは

じつは、青ヶ島は天明3~4年(1783~4)の大噴火で100名以上の犠牲者を出しながらも八丈島へ避難し、その50年後の天保5年(1834)再開発の大願が成就するまで長い間、無人島に置かれたという歴史を持つからだ。そうした中で、何度も破船しながら故郷・青ヶ島の還住・起こし返しの試みを行ってきた。世代を引き継いでの、その苦難の歴史について、地理学者の志賀重昴(1863~1927)は『日本風景論』の「緒論」の中で、民俗学者の柳田國男(1875~1962)は『青ヶ島還住記』の中で、高く評価したのである。しかし、八丈島に避難した青ヶ島の島民が還住を諦めていたら、どうなったであろうか。

昭和21年1月29日から3月22日までの53日間、伊豆諸島はSCAPIN677※によって日本から「行政分離」されたが、伊豆大島では「大島憲章」を策定して「独立」する動きもあった。このとき、青ヶ島は伊豆諸島ではなく、小笠原諸島として数えられる可能性も残されていたのである。しかし、八丈島との歴史的関係の深さによって伊豆諸島の枠の内に入って本土復帰をしたのである。ちなみに、このSCAPIN677によって同時に「行政分離」された他の「特定外周領域」のうち、トカラ列島の下七島(鹿児島県十島村)は昭和26年12月5日、奄美群島は昭和28年12月25日、小笠原諸島は昭和43年6月26日、沖縄県は昭和47年5月15日に復帰したが、それまでは日本から行政分離されていたわけである。

青ヶ島は八丈島の南およそ67kmに位置する。高い絶壁が回りにそそり立ち、カルデラ火山のように見える

ところが、昭和21年1月のSCAPIN発令の時点で、もし仮に青ヶ島が小笠原の一部に数えられていたとしたら、小笠原が日本へ返還されたかどうか、わからないと思われる。明治時代における小笠原諸島のわが国への帰属が必ずしもスムースに運ばなかったように、青ヶ島が無人島のままなら八丈島以南の島々がマリアナ弧の一部として国連統治下に置かれたり、グアムやサイパンと同じようになっていた可能性も捨てきれない。そうなっていたとすると、日本のEEZは現在のほほ半分の領域しかなくなる。青ヶ島はそれほど重要な海域に位置していたことになる。にもかかわらず、一部の人たちからは、天明の噴火のとき無人島になってしまえば、今になって国や都の予算をつぎ込まなくてもよかったのだ、と言われてきたのである。

事実、青ヶ島では「伊豆諸島」の日本からの行政分離の解除の後も、『公職選挙法施行令』(昭和25年5月1日施行)の第147条(当時)によって昭和31年7月8日執行の参議院議員選挙の日まで国政・都政レベルの選挙権を奪われていたのである。まさに、日本国から一時的にせよ意図的に「忘れられた島」だったのである。天明の大噴火で無人島になっていたら「日本」から切り捨てられていた可能性も捨てきれない。ちなみに、幕末期の国学者・経済学者の佐藤信淵(1769~1850)は『宇内混同秘策』(1823)の中で、青ヶ島を今日の小笠原諸島、フィリピン、マリアナ、カロリン諸島の開発の前線基地とすることを提案しており、かつて佐藤信淵が"大東亜共栄圏"の先駆的イデオローグ視されたことを考えると、青ヶ島は微妙な地政学上の海域に位置していたことになる。

小さな島の管理こそがこれからのわが国には必要

日本は四方を海に囲まれた島国なのに、日本人の多くは概して小離島に対して無理解である。ましてや小さな無人島や、岩礁になると、ますます無関心になる。竹島や尖閣諸島の問題の根っこには、日本人のシマにたいする無関心さがある。

ちなみに、わが国には6,852の島がある。その数字は(平均海面で)「周囲が0.1km以上」の島が対象となっている。ただし、その名は島だけではなく、岩・石・瀬・根・神・バエ...等々が付くのも多く含まれている。もちろん、通常は海面下に隠れている暗礁は、その中には含まれていない。

中国は、小笠原村の行政区域に入るわが国最南端の沖ノ鳥島を「岩」だと主張しているが、中国や韓国では暗礁までを「領土」視している。たとえば、東シナ海の北部海域に位置する暗礁の離於島(イオド=中国名:蘇岩礁)がそうである。同海域では韓国と中国が互いにEEZを主張しているが、韓国は済州島の南端にある馬羅島(マラド)の西南149kmの、この平均水深4~5mの暗礁の上にヘリポート・灯台・船着場などを設備した海洋観測基地を建設し、2002年以来、実効支配している。すなわち、暗礁を占拠して人口構造物を設置し基地化することによって、その周辺海域の領有を主張しようというわけである。中国と韓国との間には、このような場所が黄海などにもあるという(2006年11月30日付『世界日報』HP参照)。

沖ノ鳥島は干潮時には南北1.8km、東西4.5kmの環礁(島)になるが、政府は常時、海面上に露出している2つの「岩」を消波ブロックとコンクリート護岸で覆うとともに、「東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地、2番地」の番地を付けている。しかし、EEZの維持のためには、温暖化にともなう海面上昇が危惧される状況の中で、さらなる補強と、中国や韓国が行っているような居住区を設置しての「実効支配」が必要かと思われる。(了)



※ SCAPIN677=1946年1月29日付連合国軍最高司令官総司令部覚書SCAPIN(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」。行政権の行使に関して日本の範囲に言及する第677号において、竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島が日本の定義から除かれる地域とされたことが、今日まで続く領土問題の一因となっている。

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