Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第14号(2001.03.05発行)

第14号(2001.03.05 発行)

海はすべてを知っている

ジャーナリスト◆野中ともよ

小さいころから海が好きで、あるときは遊び相手、あるときは話し相手として、生き方すらも海に教えてもらったように思う。いま、海洋を専門にされる研究者にまじって、『海洋問題』について語ろうとするとき、まずは私にとって海とはいったい何だったのか、そしてこれから海とどう向き合っていこうとしているのか、話をさせていただきたい。

40年以上生きてきた。なあーにまだまだ洟たれ小僧さ、と励まして(?)下さる方もある。でも、個体の自分からすると、昨今、とみにアレコレ考えることが多くなり、しかもその重心が下降し、なんだか胡散臭い。

このコラムもそうだ。
昨年までの私なら、自分も編集委員のハシクレとして名を連ねさせていただいている身。しゃきんと、元気のよい、しかも、毎号送られてくるレターの巻頭ページの格調の高さに匹敵はハナから無理にしても、それに恥じない文章を書くのだ、と調査研究のにわか勉強を励行。理事の名を汚すことない投稿をしていたに違いない、と思うのだ。

だが、なのである。
ムクムクと、それでいいのか?  の心が鎌首をもたげはじめてしまう。

そもそもこのニューズレター。ご自身で海洋を専門になさる研究者や、プロの業界人の方々を中心読者にスタートはするけれど、その細分化され、専門化されていく『海洋問題』をもっと統合総合的にとらえていくために一般の人々にも参加してもらえる切り口をつくろう、と誕生したはず。委員の先生方は素晴らしいご専門家ばかり。とくれば、私の使命は、もっとプリミティブで、やさしく、ひらたいものではないのかしら。でも、なあ。......とまあ、シノゴノ逡巡する思いから書き連ねてしまうこと自体が、もう完璧オバサン系である。

いずれにしても、平均寿命のテープを半分に折ると、ちょうど半分の折り目あたり。ふり返ると、いつも、海がそこにはいてくれた。

「『海』って何だろう?」

小さいころからとにかく海が好きだった。

東京の杉並生まれ港区育ち。日常的に海がない分、憧れと乾きがいつもあった。小学校2年生のとき、若大将加山雄三さんに出会い、痺れてしまったこともあるかもしれないが。

夏は大洗海岸の別荘で2ケ月過ごし、漁師の子どもと一緒に、真っ黒コゲの子ども時代を送ってきた母は、いつも私の泳ぎの先生。海岸でハマグリを足でさぐりながら、海人の生活や昔話を聞かせてくれた週末が懐かしい。

学生時代は、休講になると、四ッ谷から鎌倉へ直行。由比ヶ浜で、干物づくりの棚の下で、一日中ただひたすら海を眺めてすごす、なんてことも、よくあった。サザンオールスターズでこのごろ話題になっている、茅ヶ崎のパシフィックホテルなどは、やはり海が好きだった母の母、私の祖母とのデートコースでもあった。

何か相談したいとき。話したいけれど言葉にならないとき。ただ、海に向かって並んで座って、波と風に身体を触ってもらっているだけで、なんだか、ほぐれた。包まれて、幸せになれた。

山のあなたの空は遠いけれど、海の水は、ずっとずっと手をつないで招いてくれている、そんな気がしていた。

小型船舶免許制ができて、すぐに一級をとった。六分儀が嬉しかった。これで、いつでも、この星の行きたいところへ漕ぎ出せる。とてつもなく自由な気分になったのを思いだす。

舟に乗る。海へ出る。何人乗りであろうとその舟に乗った人間は、運命共同体である。嵐が来れば、全員が各々自分にできるベストをつくさなければサバイブできない。人種も国籍も、通帳の残高(?!)の区別も差別もない。皆、全員が平等に尊い命の持ち主として、各々のために力をつくす。それが、まったきあたりまえのこと。それが生きるということなのだよ。

これも海が教えてくれることである。

港は、そんな大海原との格闘を経てきた舟を、やさしく迎えてくれる。水と食糧を満たし、また、ふたたび海へ、舟へとチャレンジを続ける勇気とエネルギーを与えてくれる存在である。

そんな人に育ってほしいと願いながら、娘に「まりな」と名を付けた。もちろん、自分ひとりでも、ガンガン外へチャレンジの旅に出るマリーナであってほしいことは言うまでもないけれど。

さて、そんなこんなで月日は流れ、ミレニアムや世紀をまたぐ記念事業としての、日本財団主催「国際海洋シンポジウム」との出会いをいただき、今日に到っている。

濱田隆士先生にはいつも、70パーセントを海で覆われるお地球さまの中味はまるでお豆腐のごとくポヨンポヨン、S極とN極だって近いうちに入れ替わってしまう(!)であろうことなど、たくさんのギョッとするほど楽しい知識を与えていただいているし、川勝平太先生のパンチの効いた先制早口教養機関銃弾講義は、今でも耳の中で響きわたっている。ウナギの回遊から、プレートテクトニクス。「しんかい」の眼が伝えてくれたマリワナ海溝近くに沈むマネキンの首やコンビニ袋などなど。様々な角度からの『海』とのつきあい方やむきあい方を教えていただいた。

中でも、先日「日本とは何か」を出版された網野善彦先生の「海によって隔てられた孤立した単一民族の単一島国国家というのはウソですなあ」には、ド肝をぬかれた。コーディネーター役をつとめながら、何枚もバサバサと目からおちる鱗の音が聞こえるようだった。

「海は人と人を結びつける道である」ととらえる見方。「頼朝が幕府を開くまで鎌倉は小さな漁村だった」とする「常識」は、「頼朝の功績を大にするための創作で、実際には実に多様な交流文化や生活がすでにそこにあった」ことを厖大な収集資料で明らかにする、などなど。

鎌倉で海をみつめていた時代の憶いや疑問が重なって、その日のシンポジウムは、私にとっても「『常識』をクエスチョンマークで再訪する、新しい航海」の船出の日となった。

網野史学は、21世紀のこの国を考えていく上でたくさんのヒントや力を与えてくれるだろう。ゆえに、様々な分野からの批判や攻撃の対象にもなるに違いない。

でも、ゆっくりと微笑む網野先生の横顔に海が重なって見えてくる。

満ちては引いて、ふたたび満ちて。大潮と小潮。太陽とお月さまのおかげの潮汐力。月と反対側の海水まで、なぜ満潮?  地球そのものも月に引かれて、そっち側の海水はとり残されるからさ。なあるほど。その干満で私たちの命は、海から陸への旅立ちができたのさ。その月も、一年に約3.8cmずつ地球から遠ざかっていることが解ってきた。私が生まれてから、もう1m70cmも離れている......ということは、逆に40億年くらい昔は、とてつもなく大きな月夜が、この海を照らしていたのだろうか......。

時は、地球をガイアと呼び、ひとつの生命体としての営みがあることを、科学的に証明できるようなところまで、人類がようやくたどりついた、新しい世紀でもある。

国家論や歴史観の論点の大もとには何があるべきか。

答えは、やはり、海が知っている。

ヒトの命は、海がくれたものである。海に問い、海と語り、海を問う。シップ・アンド・オーシャン財団のシンクタンクとしての未来に心からのエールを贈りたい。(了)

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