Ocean Newsletter
第145号(2006.08.20発行)
- 東京大学生産技術研究所助教授◆北澤 大輔
- 宮崎県水産試験場小林分場長◆兼田 正之
- アミタ(株)持続可能経済研究所主任研究員◆田村 典江
- ニューズレター編集委員会編集代表者(総合地球環境学研究所教授)◆秋道智彌
カスピ海の環境問題
東京大学生産技術研究所助教授◆北澤 大輔カスピ海は古い歴史を持つ汽水域であるため、チョウザメ類を中心とした独特の生態系を有している。
一方、カスピ海は石油、天然ガス資源の宝庫であることが判り、
今後地下資源の開発が強力に進められると予想される。
地下資源の開発に伴って排出される有害化学物質は、カスピ海生態系に大きな影響を及ぼすため、
周辺各国が協調し、環境保全に十分に配慮しなければならない。
カスピ海における環境問題の現状を紹介する。
カスピ海の概要
カスピ海は、南北方向に約1,030km、東西方向に200~400kmの拡がりを持つ海(または湖)であり、周辺をアゼルバイジャン共和国、イラン・イスラム共和国、カザフスタン共和国、トルクメニスタン、ロシア連邦によって囲まれている。平均水深は208mであり、南部に最大水深1,025mの地点がある。
カスピ海は流出河川を持たない「閉ざされた海」であり、流入する河川水や地下水はすべて蒸発によって失われる。カスピ海の平均水位は、世界の平均海面より約27m低いが、経年的に大きく変動する。たとえば、1975年から1995年にかけて水位が約2.5m上昇し、居住地や工業地、農地に冠水の被害をもたらした。
また、カスピ海は古代湖のひとつでもあり、塩分が概ね10~14psuの汽水域であるため、多くの固有生物を含む独特の生態系を有している。カスピ海固有のチョウザメ類やアザラシは、周辺各国の貴重な漁業資源となっているだけではなく、学術的にも存在価値が極めて高い。だが、その一方で、カスピ海周辺各国の経済活動の発展により、カスピ海の生態系は、いま崩壊の危機にある。
カスピ海の環境問題
1960年代後半から、ソビエト社会主義共和国連邦ではカスピ海の環境保全に関するいくつかの決議を採択し、環境汚染防止に努めてきた。しかしながら、ソ連崩壊など社会情勢の不安定化による環境政策の縮減、停止もあり、カスピ海生態系の機能の低下が続いている。
たとえば、1980年代にはチョウザメ類の病気、水鳥の死亡が相次ぎ、1997年と2000年にはカスピカイアザラシの大量死が確認された。チョウザメ類やカスピカイアザラシの体内からは、高濃度のPCB、重金属、炭化水素等が発見されており、これら有害化学物質の体内への蓄積がウイルスに対する耐性を低下させ、病気や死亡に至らしめたと考えられている。
また、近年の新たな漁業問題として、2000年以降イワシ類の漁獲高が大きく減少したが、これは黒海、アゾフ海からタンカーによって持ち込まれたクラゲ類によるイワシ類の餌、魚卵、稚魚の摂食が主原因であるとされている。
これらの他にも、ダム、堤防の建設に伴う河川デルタの破壊による魚の産卵場、生育場の消失、密漁などによる生物資源の過剰搾取など、カスピ海の生態系崩壊の要因は様々である。カスピ海生態系の機能低下には、これらの要因が複合的に作用しているため、環境汚染あるいは生態系崩壊の原因を特定し、有効な対策を講じることはかなり困難なものとなっている。
石油、天然ガス資源開発


さらに、今後、カスピ海で最も盛んになると予想される産業は、石油、天然ガス資源の開発であろう。カスピ海では、アゼルバイジャン共和国のバクーを中心として古くから石油、天然ガス資源の開発が行われてきた。ソ連崩壊後、欧米資本を中心とした多国籍企業のカスピ海への参入が活発化し、本格的な地下資源調査の結果、カスピ海における豊富な石油、天然ガス資源の存在が明らかとなった。近年のエネルギー資源の需要増大や、原油価格の高騰などから推察すると、石油、天然ガス資源の開発は加速度的に進む可能性が高い。すると、海上事故により油が流出したり、掘削施設、運搬船、パイプラインから油が漏れたりすることにより、多くの有害化学物質がカスピ海に廃棄されるようになり、環境汚染の危険性が高まる。また、地下資源の開発において海底を掘削する際に、過去に堆積物に蓄積されたPCB、重金属、炭化水素などの有害化学物質が再び海水中に回帰することもある。
現在、カスピ海にはすでに約15万トンの石油製品、約1,400トンのフェノール、約3,400トンの合成界面活性剤などが流れ込んでいると報告されている。特に、「閉ざされた海」であるカスピ海では、有害化学物質がすべて海中あるいは海底に蓄積されるため、環境汚染の長期化が懸念される。石油、天然ガス資源開発による生産額は、生物資源の生産額に比べてはるかに大きいため、環境問題よりも資源開発が優先される傾向にあるが、カスピ海は非常に独特で豊かな自然を持っており、利益優先の経済活動は取り返しのつかない結末、すなわち数十万年にわたって構築されてきた生態系の崩壊という結果を導く危険性がある。
カスピ海の環境保全に向けて
カスピ海の環境保全を効果的に推進するためには、周辺各国の国際協調が必要不可欠である。まず、周辺各国間で解決すべき問題はカスピ海の領有権問題であろう。すなわち、カスピ海を海と捉えるか、湖と捉えるかによりカスピ海上の国境線の位置が異なるため、地下資源の領有権に関する周辺各国間の合意がまだ得られていない。さらに、原油採掘時、運搬時に流出事故が起きると被害が国境を越えて広がることが容易に想像されるため、原油採掘、精製施設、パイプラインの建設にあたっては国境を越えた環境影響評価を行わなければならない。
近年、石油、天然ガス資源の開発は急速に広まりつつあり、カスピ海の環境保全、海の生物資源の維持、地下資源の合理的利用に関する周辺各国間の合意を得ることは急務である。
カスピ海周辺諸国は、1998年に世界銀行、欧州連合(EU)、国連開発計画(UNDP)、国連環境計画(UNEP)の協力のもと、「カスピ海環境プログラム」を設立し、カスピ海の広域モニタリング等を通して環境保全のためのアクション・プランをまとめる方針である。このような国際協調がさらに発展し、カスピ海生態系に配慮した資源開発が行われることを期待したい。(了)
●東京大学生産技術研究所海洋生態系工学研究室http://mefe.iis.u-tokyo.ac.jp/study.html
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