Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第136号(2006.04.05発行)

第136号(2006.04.05 発行)

伊勢湾は「里海」である

エッセイスト◆川口祐二

「ウミハ ヒロイナ、オオキイナ」という唱歌の通り、伊勢湾は広い。広いが、しかしそれ故にその変化に気づかずにいる人もまた多い。昨日と今日の変化はわからないが、20年30年ののち振り返ってみたら、その変貌の大きさに人は驚くだろう。海は人間の暮らしを映す鏡である。その鏡を照らすも曇らすも結局は人間次第であり、すべての人びとが関わっていく共有財産としての里海という視点が、今われわれには求められている。

伊勢湾は魚介藻類の宝庫

伊勢湾は日本最大の内湾である。東京湾のほぼ倍の水域面積2,342km2を持つ※1。そこは魚介藻類の宝庫で、四季を通じて多くの海産物を私たちの食卓に提供してきている。漁師たちは多種多様の漁法を考案し、魚との知恵比べを続けてきた。古い漁法だが今も受け継がれているのが、湾口に位置する鳥羽・答志島(とうしじま)のコウナゴ漁だ。コウナゴはイカナゴのことで、島の漁師たちは、この漁を餌掬(えすく)いと呼ぶ。

「餌掬いは鳥が知らせたのを、人間が横取りするやり方やな」※2

島の漁師はこのように言う。タイなど大きな魚がコウナゴを追う。それを海鳥が群れに固めようとする。海中にもウが潜っていて、コウナゴの群れを下から上へと持ちあげていく。上に浮いてくる魚群を、空中で舞うカモメが見つける。それを人間がいち早く察知して、船の上から長い柄の大きなタモ網で掬いとるのである。魚群が大きいときには、ひと掬いで20籠、高値ならおよそ100万円になるというから、豪勢なものだ。まさに宝の海である。

消滅した漁法・漁場

すでに消滅した漁法もある。栗石を積んでウナギを捕ったのが、石ぐりといわれる漁法。「300個ぐらいの栗石を小山のように積んでおきます。高さ70cmぐらいの山に積み上げるんです。そのまわりを竹で編んだ簀で巻いておく。潮が引いてから石を取り除いていくと、足にぽんぽんとウナギやアナゴが当たる。きょうはよけおるぞ(たくさんいるぞ)、と言いながら捕ったもんです」※3

これは私が松阪市の漁師から聞き取りしたものの抜粋である。石ぐりの漁場であった浅瀬はすでになくなり、岸まで潮が来ている。

北部の湾奥はさらに激しく変貌した。木曽岬干拓事業は、漁師たちが葦山(よしやま)といって大事にしてきた漁場を潰した。

「ハマグリがよう繁殖したで、その卵がひろがって木曽三川全体、どこでも捕れました」※4

それに長良川河口堰の建設が追い打ちをかけ、中部国際空港もできた。空港の造成で、カレイ、クロダイ、アイナメなど高級魚の多くいた漁場が消えた。こんなケースは日本中のどの湾どの海域にもある。海が変わったという漁師の呟きは、考えてみれば、しまった、という後悔を積み重ねてきた20世紀の日本の漁業の歩みの嘆き節ともいえよう。

桑名赤須賀のハマグリ漁場で学習する山の子どもたち

しかし、彼らは嘆いてばかりいるのではない。積極的な種苗放流がある。ヨシエビの稚仔の放流によって、四日市磯津は豊漁が続く。かつての四日市公害の原点である海域でのこと、歴史の皮肉といえようか。

桑名赤須賀の漁民のハマグリ稚貝の長年にわたる放流も見逃せない。長良川河口堰建設によって、川底は荒廃したが、それにめげず放流を続けてきたことへ、自然が応えてくれている。ここで毎年夏休みに、地元と岐阜県の小学校の児童たちが交流体験学習をする。素足でハマグリのすむ川底を歩く。私もそれに合流して漁場に立ったことがあるが、隣にいた岐阜県からの引率の教師が、赤ちゃんのこぶし大のハマグリを掘りあて、宝くじに当たったような気分だ、と大喜びした光景を、今も忘れずにいる。

伊勢湾漁民の心意気、神島の元旦の「ひなたの行事」。船の上から撒きものをする。

海は万華鏡

海は漁業者の場とだけしか考えがちだが、決してそうではなく、「里海」としての視点が必要な時代になってきている。伊勢湾も漁師だけのものではない。海上交通を考えれば誰にでもわかることだ。それは沿岸に立地する発電所のほか、四日市などのコンビナートとも結びつく。1,000万人の暮らしとも切り離せない。名古屋、四日市、豊橋といった日本有数の貿易港を持ち、中部国際空港の出現がさらに多面性を加えた。海上の物流だけでなく、航空による人と物の流れが重なったのである。巨大船舶が往き交い、空には飛行機の飛来がいとまもない。

この繁栄の姿に、私は四日市港を私財で築いた稲葉三右衛門を想う。伊勢湾の恩人である。そして港の先にオランダの技師デ・レーケが潮吹き堤を見事に完成する。

-空気は透通(すきとほ)って、海の向こうの細かい漁師町まで浮世絵のやうに見える。能(よ)く凪いで藍を湛(たと)へたやうに濃く澄み切った海の上を、白帆が滑るやうに動いて行く。鯊(はぜ)釣船が数切(かぞへき)れぬほど出て居る。其中に黒く塗った大きな汽船が一艘、横浜と伊勢の四日市との間を往復して居るのだ。-※5

これは知多半島半田の出身である明治の作家小栗風葉の小説「ぐうたら女」の初めの部分。数え年14歳の少年が、東京へ行きたいと胸をたかぶらせながら、知多の丘に立って四日市港の出船入船の様子を、遠望しているシーンである。それからすでに120年が過ぎた。

先人が営々として築きあげた港や堤防は、日本が近代化へ進んだ道のりを示す有形の文化財であり、一方、各浦浜に受け継がれてきた幾つかの漁法は、無形の文化財といえる。このように考えれば伊勢湾は歴史を学ぶ場でもあるといってよいだろう。

また、伊勢湾の海岸は海浜植物が多く、アカウミガメが産卵にやってくる渚も各地にある。人の心を和ます自然があちこちに息づいている。海は万華鏡といえよう。

「里海」としての視点を

このように伊勢湾は多くの顔を持つ。漁場としての海にとどまらず、日本人すべての共有財産であるという視点が必要なのである。共有はすなわち共生、それがつまり「里海」だ、という捉え方が、21世紀の課題となるべきであろう。「ウミハ ヒロイナ、オオキイナ」という唱歌の通り、伊勢湾は広い。広い故にその変化に気づかずにいる人もまた多い。きのうときょうの変化はわからないが、20年30年ののち振り返ってみると、その変貌の大きいのに驚く。「海は人間の多様な営みを映す」※6、といわれる。人間の暮らしを映す鏡である。海という鏡を照らすも曇らすも人間次第。「里海」として、すべての人びとが関わっていく、そのようなグローバルな視点が、今求められている。(了)

※1 「日本沿岸海洋誌」

※2、3、4 「伊勢湾は豊かな漁場だった」海の博物館編

※5 「明治文学全集第65巻」筑摩書房

※6 「Ship & Ocean Newsletter」NO.125編集後記

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