Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第136号(2006.04.05発行)

第136号(2006.04.05 発行)

深海は微生物資源の宝庫

広島大学大学院生物圏科学研究科助教授◆長沼毅

私たちは医薬品、醗酵食品、産業から生活まで幅広く微生物から恩恵を受けている。そうした有用な微生物の「囲い込み」は、今や重要な国家戦略とさえ位置づけられるほどである。海洋は広大な未知生物圏であり、なかでも深海は海洋微生物資源の大半が潜む宝庫である。海洋における微生物資源の確保および権利保全に向けての計画策定は、わが国にとっても喫緊の課題であると思われる。

国益としての生物多様性の確保および保全

地球に住む生物は、学術的に分類されているものが約200万種、未発見や未発表を含めると1億種以上にもなる。その多くは微生物だが、正式に名前のついた微生物はまだ1万種にも満たない。しかし、このたった数千種の微生物から、私たちはどれだけの恩恵を受けていることか。抗生物質などの医薬品、醗酵食品、産業から生活まで幅広く利用されている諸酵素など、枚挙に暇がないほどだ。では、1億種以上もの微生物を知ることができたら、さらにどれだけの恩恵が生まれるだろう。

生物の多様性は、絶滅危惧種の保護やその生息環境の保全という観点から論じられることが多いが、実は、有用な微生物の「囲い込み」という国益的観点からの取組みも進んでいる。たとえば、生物多様性条約の目的は「生物多様性の...持続可能な利用及び遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分」(第一条)であり、日本でも生物多様性国家戦略などを通して、生物資源(特に微生物資源)の確保・利用が政策として進められている。生物多様性条約では生物資源の原産国・提供国の権利保全が主目的であり、国連海洋法条約と合せて考えれば、海洋微生物も囲い込まれることは明らかである。海洋立国を目指す日本においては、国益ともいえる海洋微生物資源の確保および権利保全に向けての計画策定が喫緊の課題であると思われる。

広大な未知生物圏としての深海

全海洋には約1028個の微生物がいて、その重さは220億トン(人間は3億トン)にもなる。しかも、その大部分は200m以深の巨大な無光層※1、すなわち深海に存在する(表1)。深海は暗黒・高圧・低温(例外的に高温)である上に、特異な微生物が生息する水塊もある。たとえば、東太平洋の水深200~1,000mにある貧酸素~無酸素層では脱窒菌※2が地球温暖化ガス(亜酸化窒素)をつくっている。従来は水産資源や鉱物資源の視点から浅海や海底ばかりが重視され、深海という巨大な水の塊が資源として注視されることはなかった。しかし、深海は海洋微生物資源の大半が潜む宝庫なのである。

現在の技術では深海に潜む大半-おそらく90%以上-の微生物は培養できない。しかし、近年になって、微生物を培養せずに環境から遺伝子(ゲノムDNA)を直接獲得・利用するメタゲノムという手法が発展してきた。ここに生物多様性条約で謳われる「遺伝資源」の重要性が明らかになる。最新のメタゲノム研究によると、有光層と無光層では微生物群の構成種が異なっているだけでなく、獲得される遺伝子にも大きな差異があるとのこと。未知の機能を有する遺伝子の探索には、深海微生物のメタゲノム研究を進める必要があるだろう。

暗黒の深海底に生態系のホットスポット

口も胃腸も肛門もない、何も食べない動物、チューブワームの世界

ダーウィンの進化論を生物学の金字塔とするなら、20世紀の生物学の金字塔は「DNA二重らせん」の解明と「深海熱水噴出孔の生物群集」の発見であろう。深海熱水噴出孔には1m2あたり数十キログラムという高密度で生物が棲んでいる。まるで深海のオアシスだ。しかも生物の量だけでなく、新種や珍種も多い。熱水噴出孔を見つけるたびに新種が発見される。ここはつまり、地熱的なホットスポットであると同時に、生物多様性のホットスポットでもあるのだ。

熱水噴出孔には、それまで誰も予想しなかった奇妙な深海生物が棲んでいた。チューブワームという動物だが、動物のくせに口も胃腸も肛門もない。何も食べないのだ。しかし、食べない代わりに体内に宿す特異な微生物に栄養をつくってもらっている。この微生物は火山ガス成分をエネルギー源にして、二酸化炭素(CO2)から自分の体と栄養を合成する(写真参照)。これは、植物が日光を浴びてCO2からデンプンをつくる光合成と本質的に同じである。

火山ガス成分(硫化水素)をエネルギー源とする微生物。右下のスケールは1ミクロン(1,000分の1ミリ)。

熱水噴出孔は、火山エネルギーを利用する特異な微生物の「天然の培養槽」である。さらに、活断層に沿ってメタンを含んだ水が湧き出す場所もまたチューブワームが生息する「培養槽」である。日本の周辺には海底火山やメタン湧水帯が多数分布しているので、それだけ多種多様な「培養槽」があることになる。個々の培養槽には独特の微生物群、すなわち生物遺伝資源の「お宝」がある。海洋国家として、手を拱いて眺めているだけで良いだろうか。

海底下にも深く広がる生態系

海底から噴出する熱水はしばしば300℃を超えるほどの高温になる(高水圧のため沸騰しない)。これほどの高温ではどんな生物も生育できないが、顕微鏡で見ると微生物がいる。それは、熱水噴出孔の地下のあまり高温でないところに「微生物の巣」があり、巣から剥がれた微生物が巻き込まれたものだ。その巣を探す「アーキアンパーク」という海底火山掘削プロジェクト(2005年度終了)により、様々な新種や珍種の微生物が発見された。やや変わった成果として、教科書的な微生物の最小サイズ(0.2ミクロン)よりさらに小さいナノ微生物という常識破りの発見がある。これは「生きるに必要な最小限の遺伝子セット」(最小ゲノム)の解明に役立つだろう。

大規模な海底掘削としては国際深海掘削計画(ODP)がある。ODPは海底火山だけでなく、ふつうの海底下の奥深くまで微生物が生息することを多くの大洋底で明らかにした。これにより、海底下にいる微生物の総数は1030個-全海洋微生物の100倍-であり、「海底下生物圏」というアナザー・ワールドこそが、生物遺伝資源の地球最大の宝庫であると分かったのである。海底下のメタン・ハイドレートもまた微生物により生じ、また他の微生物を育むとされている。

ODPは2003年に終了し、現在はその後継として統合深海掘削計画(IODP)が進行中である。IODPでは日本が建造した地球深部探査船「ちきゅう」が主力船として活躍する予定である。これにより、海底下生物圏という巨大な宝庫に日本が主導的にアクセスできることになる。これを単なる科学探査機会として捉えるだけでなく、生物遺伝資源の確保・保全の橋頭堡として、水産・交通・EEZ・安全保障などと同様に、海洋立国の確固たる立脚点として育てなければならないだろう。(了)

※1 水面から入った太陽光は水深が深くなるにつれて弱まり、ある深さより下では植物が光合成を行えなくなる。この水深より上を有光層、下を無光層という。その境界は海域によって異なるが、外洋では一般に水深200m前後である。

※2 脱窒は嫌気的な条件下で遊離酸素(O2)の代わりに硝酸(NO3)を用いる酸化反応で、硝酸呼吸ともいう。脱窒菌はこれを行う微生物の総称。脱窒により硝酸態窒素が窒素ガス(N2)として遊離する。

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