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オーシャンニューズレター

第128号(2005.12.05発行)

第128号(2005.12.05 発行)

保存試料を活用して海洋汚染の過去を読み将来を予測する

愛媛大学沿岸環境科学研究センター教授◆田辺信介

新しい有害物質が登場し、その汚染と影響が社会問題化すると、専門家や行政担当者から「地球規模での汚染の広がりは?」、「汚染の経時的推移と将来の動向は?」といった質問が必ず寄せられる。
過去40年にわたり世界各地で収集し冷凍保存してきた愛媛大学の生物環境試料が、時空を越えて思わぬ威力を発揮しはじめた。

生物環境試料バンク設置の背景

2001年に日本沿岸に集団座礁したカズハゴンドウ。この種のイルカは1982年にも座礁しており、当時採取し冷凍保存していた臓器・組織試料が環境汚染の研究に活用された。(写真:早野あづさ)

私が環境化学の研究を開始したのは1972年のことで、最初の研究テーマは「瀬戸内海のPCB汚染」であった。私はトータルな形で瀬戸内海の化学汚染を考えてみたいと思い、海洋だけでなく陸域も含め多様な環境試料についてPCB(ポリ塩化ビフェニール)の分析を試みた。その結果、不可解なデータが得られた。瀬戸内海の環境に残存しているPCB量が予想外に少ないのである。このことはPCBが地球規模で広がったことを意味するのではないか、地球汚染を立証したいという衝動に駆り立てられ、大学や官庁の調査船に乗船することになった。この過程でPCBや農薬による汚染が世界の隅々まで広がり、北極や南極も例外ではないことなど新しい科学的事実を次々と明らかにすることができた。

こうした研究の展開は、疑問を解明したいという単純な欲求であったが、一方で大気・水・堆積物(土壌)とそこに棲む生物の汚染実態を包括的に理解したいという志向が働いたことも事実である。また、このようなトータルなアプローチは時空間的な思考を生み、広域汚染の実態を理解することに加え、その過去を復元しそこから将来の動向を読む研究、つまり時系列変動の課題の重要性も認識するようになった。すなわち「すべての環境試料は時空間的な汚染の履歴を含蓄している」という価値観を環境化学の研究の中で強く意識するようになり、世界各地で集めた環境試料、とくに野生生物の試料を研究が終了しても廃棄せずに冷凍保存してきた。

「塵も積もれば山となる」であろうか、その試料数は約1,000種類、10万点に膨れあがり、思わぬ威力を発揮しはじめた。その最たる効果は、文部科学省の21世紀COEプログラムに採択されたことである。申請課題は「沿岸環境科学研究拠点」で、愛媛大学の沿岸環境科学研究センター(CMES)を中核に、「内分泌撹乱物質等有害化学物質の環境動態と生態影響の解明」に関するプロジェクト研究を展開している。このプロジェクトでは、これまで収集した試料を「生物環境試料バンク(es-BANK)」として体系化し、これを基盤とした先端研究と人材育成をすすめるとともに、新たな試料や情報の交換を通して国内外の研究機関と共同研究を展開し、世界水準の研究教育拠点の形成を目指している。平成14年度~16年度の3年間に国内外から約310種、10,100個体、13,300検体の試料を受け入れ、約40種、500個体、530検体を世界の研究機関に提供した。これらの試料に関わる新たな共同研究を、国内外の約50の研究機関と開始した。

バンク試料で得られた研究成果

es-BANKを活用した研究で注目を集めた成果は、ダイオキシン類等POPs(残留性有機汚染物質)と呼ばれる有害物質の海洋汚染を地球規模で検証し、南半球に比べ北半球の汚染が顕在化していることを明らかにした点である。とくに、途上国の都市ゴミ集積場に、ダイオキシン類の大きな発生源が存在することを発見した成果は世界の関心を集めた。また、新規有害化学物質PBDEs(ポリ臭素化ジフェニールエーテル)について、アジア地域の汚染実態とその経年変化を明らかにした研究は、バンク資産の威力を世界に示す成果となった。この研究は、わが国や中国の沿岸域で捕獲・漂着した海棲哺乳動物の保存試料を活用してPBDEsによる汚染の過去を復元し、近年の濃度上昇が著しいことを明らかにしたもので、試料を保存していたが故に結実した成果である。

さらに、毒性影響解明研究の一環としてダイオキシン類の受容体であるアリルハイドロカーボンレセプター(AhR)のcDNAクローニングを海棲哺乳動物や海鳥類の組織を用いて実施し、遺伝子配列の特徴や機能特性を解析した。この過程で、バイカルアザラシやクロアシアホウドリなど、個体数の減少により現在では入手が困難な希少種のバンク保存組織試料からDNA/RNAを抽出することに成功した。この分野の科学技術は急速に進歩しているため、試料採取時には不可能であった研究が時代を経て可能になることもある。過去の試料を保存しておけば、技術の進歩を待って画期的な研究成果をあげることも夢ではない。化学物質の暴露によって発現量が変動する遺伝子や化学物質と相互作用する遺伝子をクローニングして得られた感受性に関する生物種間差の知見は、超低温フリーザーに保存してきた一部のバンク試料が、毒性学の新しい技術により開花し成果をあげた典型的な事例である。

■図1 日本沿岸に集団座礁したカズハゴンドウから検出された有害物質の濃度比較
1982年と2001年に座礁したカズハゴンドウの皮下脂肪を分析したところ、新規有害物質PBDEsは20年間で約10倍の濃度上昇を示した。保存試料の活用により、PBDEsによる海洋汚染の拡大と長期化が判明した。

戦略的研究の展開

上記の成果は、保存試料がなければ実現しなかった研究である。環境の研究は、高度な分析技術や人材だけでなく長期にわたる体系的な試料の収集や保存によっても成否が左右される。保存試料は「環境の履歴」を語る材料であり、その存在があって初めて先端技術や頭脳が威力を発揮する。

「生物環境試料バンク」に保存されている試料は今後採取できない人類の「宝」である。将来新たな環境問題が発生した場合、過去にさかのぼって地域的・地球的な汚染研究が展開できる「タイムカプセル」であり「アースウオッチャー」でもある。欧米ではこうした保存環境試料の重要性を早くから認識し、例えば米国のHollings Marine Laboratory、ドイツのFraunhofer Instituteには大規模なバンク施設が整備され、国策として試料の収集・保存と環境汚染のモニタリングをすすめている。わが国でも昨年、独立行政法人国立環境研究所に施設が建設された。文部科学省の概算要求で愛媛大学にも生物環境試料バンクの施設整備が認められ、平成17年末に完成予定である。スペシメンバンク(環境試料バンク)は、わが国の総合科学技術会議の第二期科学技術基本計画において先端研究基盤としての重要性が指摘されている。環境試料バンク施設を戦略的に活用し、世界をリードする環境研究を展開してみたいものである。(了)

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