Ocean Newsletter
第124号(2005.10.05発行)
- 北海道奥尻町役場総務課主幹◆木村孝義
- (社)漁業情報サービスセンター専務理事◆吉崎 清
- 福岡調理師専門学校・伊東文化学園学園長◆伊東梛子(なぎこ)
- ニューズレター編集委員会編集代表者(東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻教授)◆山形俊男
恩恵の海が津波の脅威に-奥尻島は、いかにして災害から復興したか-
北海道奥尻町役場総務課主幹◆木村孝義平成5年7月12日に発生したマグニチュード7.8の北海道南西沖地震。
その直後に奥尻島を襲った高さ29mの巨大津波は、一瞬にして島の生活すべてを奪い去った。
廃墟同然からの復興は難しいと思われたが、町は総勢14名のプロジェクトチームを組織し、「生活再建」「防災まちづくり」「地域振興」の三本柱を掲げ、災害からの完全復興を目指してきた。
1.海の恩恵を受ける平穏な島の営み
奥尻町は、北海道の西南端に位置し、周囲約84kmの日本海に浮かぶ離島で、道内の離島では面積は2番目に大きく、比較的温暖な気候の中、約1,700世帯、約3,800人が暮らす一島一町の小さな町である。四方を海に囲まれた地理的条件から、ウニ、アワビ等を中心とした豊富な魚介類や水産資源を有し、昔から基幹産業として水産業が栄えてきた。一時は「夢の島」「宝の島」ともてはやされたが、漁獲量の減少や漁業者の高齢化、後継者不足等で年々衰退の傾向にある。一方、豊富で新鮮な魚介類、沖縄にも匹敵すると言われる透明度の高い海、有数の自然美豊かな景観と観光名所を求めて訪れる島外者が年々増加し、近年は水産業と肩を並べ観光産業が地域経済を支えている。町民は、道内の離島では唯一の天然温泉に浸かったり、コバルトブルーに輝く自慢の海から、魚釣りや海水浴を満喫するなどの生活の恩恵を受けながら、田舎ならではの平穏でのどかな日々の営みを送っていた。そんな平和な暮らしを一瞬のうちに一変させたのが、平成5年7月12日に発生した「北海道南西沖地震災害」である。
2.地震発生、津波来襲、自然の猛威
午後10時17分、突然大きな縦揺れに始まり、強い横揺れが断続的に続く......。誰もが予期せず、過去に例のない突然の大地震は、当時島内に地震計がないことから後に震度6以上の烈震と推定された。震源地は、島の北西約70km沖、深さ約34km、マグニチュード7.8という日本海観測史上最大級のものであった。震源に近い島はもとより、北海道全域や東北地方、遠くは石川県でも最大震度5の中震を記録するなど、その影響は広範囲に及んだ。地震発生から約5分後に「大津波警報」、約7分後に「避難命令」が発令されたが、この災害での象徴とも言える津波は、地震発生からわずか3分後に第1波が島を直撃した。しかも高さは最大で29m(31mという説もある)の巨大津波だ。何事が起きたのか考える間もなく、一瞬で街を襲い、人々と家々を飲み込み、すべてを洗い流し、奪い去った。それは島全域に及び、とくに、島中心部の奥尻地区では地震による崖地の崩落が、島南部の青苗地区では火災の発生が重なり被害を大きくした。その惨状はまるで戦争の跡地のように、ただ街並みが消滅した現実だけが残る。地震と巨大津波が住宅地を襲い、同時に発生した火災によって街は壊滅的とも言える約665億円の甚大な被害を受け、死者172名、行方不明者26名という町史にない未曾有の大惨事となり、まさに信じられない悪夢が起きたのだった。
3.復興対策・宣言、全国支援の賜物
この甚大な被害に当時の町長は「これで奥尻町は終わった......」と嘆き、多くの町民は親族や知人を突然奪われた心の悲しみと、この廃墟同然からの復興は難しいと感じていた。だが、いつまでも悲観してはいられず、町は完全復興に向け挑戦を始めた。同年10月、北海道庁からの職員派遣も受け、総勢14名によるプロジェクトチーム「災害復興対策室」を組織し、復興全般に携わった。「町災害復興計画」を策定し、単に被災者の救援や復旧のみに留まらず、復興という観点から「生活再建」「防災まちづくり」「地域振興」の三本柱を掲げ、復興の目標年次を平成9年度とした。復興に大きく貢献したのは、全国各地から寄せられた善意の義援金で、これにより住宅取得への助成など73項目に及ぶ被災者への支援と自立復興を推し進めることができた。震災から復興までのプロセスの経験がなかったが、町民や町議会、関係機関との連携により、計画通り5年間という予想以上の速さでの復興を成し遂げ、平成10年3月で完全復興宣言するまでになった。全国からの多額に及ぶ義援金がなければ今の奥尻町はなかった。今日でもご厚情いただいた多くの方々への感謝の念は絶えない。


4.復興の過程と講じられた防災対策
復興の過程の一部を紹介すると、まず、被災した約1,400棟の住宅再建を最優先に、水産庁の「漁業集落環境整備事業」、国土庁の「防災集団移転事業」を活用し、併せて町単独の「まちづくり集落整備事業」を行い、甚大な被害を受けた地区全体の復興とまちづくり基盤整備に着手した。
さらに、津波高に合わせた防潮堤を島内約14kmにわたり整備し、背後地に盛土した安全な高さの地盤を確保した上、道路、生活排水処理施設、防災安全施設、避難広場、緑地公園、消火栓など防災と安全面に配慮した市街地計画に基づいた整備を行った。それと並行し、地震・津波対策を重点とした町防災計画の全面改訂、大地震を感知すると自動的に門が閉鎖して津波の進入を防ぐ河川水門の設置、世界初の人工地盤の建設、この大惨事を記録し永く後世に伝えるための世界初の津波館の建設、津波対策を施した高床式構造の校舎の建設、津波からいち早く逃れるための太陽電池付き避難誘導灯の設置と避難路の整備、救急避難袋と防災ハンドブックの全世帯への配布、防災ヘルメットの全町民への配布、災害時の通信確保のための携帯電話アンテナの整備、大地震を感知すると自動的に避難勧告が放送される防災行政無線放送システムの改修、町指定避難所への孤立防止無線機、受信機、発電機、毛布、保存水等の配置、緊急時の食料や燃料確保のための優先契約、塩水浄化装置の整備、ソーラーシステム街灯の設置、緊急ヘリポート用夜間照明の設置など、列記したら限りないほどの防災対策を施した。
もちろん全町民対象の地震・津波を想定した防災訓練を毎年実施するとともに、学校や地域、職場単位での避難訓練、防災意識の高揚のための広報や、回覧、防災行政無線での周知等は欠かさない。
5.自然界のありがたみと猛威の教訓
ただ、いかに多くの防災対策を講じてもそれで万全とは言い切れない。予知・予測困難なのが自然災害であり、人の知識で講じた対策を覆すのが自然界の猛威であり、摂理である。どんなに万全でも、そこに暮らす個人各々が意識を持たなければ意味がない。地震も津波も、完璧に防御できる有効手段はないと断言したい。だからこそ地震を感知したらまず『走って少しでも高い所へ避難する』ことが鉄則であり、被害を防ぐというより、いかに最小限にくい止めるかが重要だ。その意識を高め行動できてこそ、そこに本来の防災が生まれる。それが防災の基本だと私は思う。
「夢の島」「宝の島」といわれ続けた奥尻島を取り囲む海は、豊富な水産資源によって生活の糧を与え、高い透明度とその変化する色合いから人々の目を和ませ、魚釣りやレジャー、海水浴など多くの癒しをもたらし続け、その恩恵は限りないものである。しかし、その多くの恩恵を与えてくれた海が、一瞬で平穏な暮らしを壊滅的なものに一変させてしまうとは、誰が予測できただろうか。自然界のありがたみと猛威の両極端を、奥尻町民はいつまでも忘れることはないだろう。(了)
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