Ocean Newsletter
第118号(2005.07.05発行)
- NTTワールドエンジニアリングマリン(株)代表取締役社長◆高瀬充弘
- (財)土木研究センター理事、なぎさ総合研究室長◆宇多高明
- 海洋政策研究財団調査役◆菱田昌孝
- ニューズレター編集委員会編集代表者(東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻教授)◆山形俊男
東京湾への珍客来訪の謎と海の異変
海洋政策研究財団調査役◆菱田昌孝今年の5月、東京湾内でコククジラが迷走するというニュースがあった。珍客来訪の原因と過程は謎に包まれている。親潮の異常南下など中長期的な海況変動との関連を示すデータもあり、今後も新しい情報やデータが蓄積されていけば、これらの謎に迫る推論が確認される日も近いと考える。
東京湾へのアザラシやクジラの来訪
2005年5月初旬に子供のクジラ1頭が東京湾の袖ヶ浦沿岸に突然現れた。そして連休を楽しむ家族連れの前で潮を吹き、思わぬホエールウオッチングができたと喜ぶ親子の姿が報道された。しかしその後、コククジラは5月7日に最も湾奥の習志野、8日に再び袖ヶ浦、10日は横須賀・横浜と東京湾を迷走して、最後は11日に千葉房総富山町の沖合約1.5kmの定置網に掛かり残念なことに窒息死しているのが発見された。この絶滅危惧種のコククジラは東シナ海の海南島周辺からオホーツク海に向け北上の回遊中に東京湾に来たと言われ、体長7.8m、体重3トン、1.5歳のメスと推定される。汚れたヘドロが堆積し餌の少ない東京湾内湾を回遊したせいか非常に痩せて栄養状態が悪かった。
最近の東京湾への珍客来訪は2002年8月上旬、多摩川に姿を見せて人気者となったアゴヒゲアザラシのタマちゃんの例がある。タマちゃんは鶴見川・帷子川・大岡川、さらには中川・荒川と居場所を変え、埼玉県に暫く居て2004年4月中旬に荒川で成長した大きな姿を見せた後、東京湾とその流域からいなくなった。アザラシの来訪は2002年9月中旬に宮城県歌津町のワモンアザラシのウタちゃん、2003年1月に新潟県加持川のカジちゃん、同年3月上旬に宮城県広瀬川のゼニガタアザラシのヒロちゃん、6月下旬に宮城県北上川、10月に茨城県利根川のゴマフアザラシと立て続けに見つかった。また普段はオホーツク海の流氷下に生息し、流氷の天使と呼ばれる巻貝のクリオネが2005年3月中旬に茨城県大洗沖合の海で採取され、多くの海の関係者を驚かせた。しかしこうした珍客来訪の原因と過程は謎に包まれている。
親潮の異常南下など中長期的な海況変動と温暖化

(写真:読売新聞社)

謎に関係がある中長期的な海況変動につき、関係の文献をもとに少し検討してみた。
第一は、観測船・ブイや潜水艦による現場観測、人工衛星観測データによると、夏の北極海の海氷面積は最近30年間で約15%、北極海中央の海氷の厚さは3mから2mへとそれぞれ大幅に減少した。それとともにベーリング氷河の激しい後退の例などアラスカ・シベリヤなど高緯度の陸域氷河や雪氷圏における氷床・凍土地帯の融解が増え、北極海や高緯度海域への淡水流入が増大し、北太平洋亜寒帯海域や北大西洋高緯度海域の低温化と低塩分化の海況変化を起こしていることがある。例えば保存性が高く経年変化は小さいはずの100m深水温が、亜寒帯海流に沿った海域などにおける5~10月の期間については30年間に約0.3℃と大きな低下を示した。
またオホーツク海やカムチャッカ海流の海水低温化によって本州東方に流入する親潮系冷水の南下距離と頻度は増大した。例えば海面水温5℃の等温線で示された親潮第一分枝の前線を比べると、例年は北緯37~38度までの親潮南下が2004年2月に北緯36度まで達した他、三陸沖の親潮海域における海面水温は最近30年間の平均値と比較して2004年3~9月には-1℃~-3℃の大きな負偏差の低下が見られた。
第二は東京湾多摩川河口の沖合における最近約20年間の経年的な平均水温変化を見ると1月の冬に約3℃上昇するとともに、意外にも7月の夏は約3℃低下した事実がある。また東京湾・伊勢湾などの海水交換における外洋水の流入影響は極めて大きく、東京湾湾口海況図の数年間の海面水温分布から4月下旬は約16℃-18℃であり、親潮系沿岸水が黒潮系水と混合しできた冷水系の水塊が来ていると考えられることがある。
上述の変化を総合的に見て、湾内鉛直循環の強化に伴う外洋水流入につき黒潮分枝流の他、親潮第一分枝から由来する低温化した親潮系沿岸冷水の流入増大を考えれば、春から夏にかけての東京湾における中長期的な水温低下が説明できるうえ、低温海水を好む生物が最近数年とくに三陸沿岸や東京湾にまで南下する現象とも一致する。
今回のコククジラの場合は南から北上して東京湾に迷い込んだ可能性が高いとされ謎は残るが、親潮第一分枝の冷水は豊富なプランクトンや小魚を南に運ぶとともに、これを餌とするアザラシなどを南下させることになる。すなわち氷上繁殖型の赤ちゃんアザラシなど大型動物の他、浮遊するだけのプランクトンに近いクリオネのような小型生物は海流・海水の異変とともに、海流に乗って自然に南下する確率と頻度が増えると考えられる。
動物個体にセンサーを取り付けたバイオテレメトリーによるモニタリングと海洋データの比較を定量的に行う必要があるが、優れたバイオセンサーが開発されるとともに、沖合にある広範囲の黒潮海域の温暖化に伴う北上データを始め、中長期的な陸と海の異変について新たなデータと情報が蓄積されつつあるので、これらの謎に迫る推論が確認されるのは間近いと考えられる。
縄文時代と江戸時代の東京湾
現在の日本近海は、過去数十年前に比べて2℃~3℃高かった6千年前の「縄文海進※」時代の海になりつつあるとされる。東京湾では千葉の市川市考古博物館に同時代のコククジラが展示され、現在の市川周辺の貝塚からしばしばクジラの背骨が出土する。博物館の出土物から、温暖な「縄文海進」時代の東京湾には今よりクジラが頻繁に入り込んでいたことがわかる。また江戸時代は東京湾にクジラが時々迷い込み、大勢の見物人が出、将軍までが見物になり、その様子が今も鯨塚の碑や鯨の浮世絵に残っている。今よりはきれいな水環境と推測できる江戸時代の東京湾においてもクジラの迷い込みは珍しい事件であり人々は大騒ぎした。その時期は親潮が強まっていたのかも知れないと考えると興味深い。(了)
※ 縄文海進=汎世界的な間氷期の海面上昇により、縄文早期末から前期前半(約6,400-5,500年前)に引き起こされた海進。関東地方では、この海進による深い入江に沿って貝塚が分布している。
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