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オーシャンニューズレター

第111号(2005.03.20発行)

第111号(2005.03.20 発行)

ユーラシア大陸横断から見た今日のシルクロード

行動科学研究所所長◆鈴木智子

中国の西安から中央アジア諸国を横断し、トルコのイスタンブールまでシルクロード14,000キロをバスで旅した。
かつてのシルクが天然ガスなどのエネルギー資源に変わり、いまや姿を変えつつある新しい物流の道。あと数十年も経たぬうちに、シルクロード転じて「エネルギーロード」と呼ばれるようになるのかもしれない。

はじめに

昨年の8月末から10月末にかけて、中国の西安から中央アジア諸国を横断し、トルコのイスタンブールまでシルクロード14,000キロをバスで旅した。西安から中国の最も西に位置する新彊ウイグル自治区のカシュガルまでは、主に玄奘三蔵のたどった歴史を追いかける。そこから先が中央アジア。キルギス共和国、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンへと移動。宗教は仏教からゾロアスター教、イスラーム教へと変化する。チンギスハーンが駆け抜けた地である。やがて歴史はいよいよ入りくみ、イランからトルコへの道。アレキサンダー大王から十字軍、チンギスハーンまで、歴史は絹織物のごとく彩なす。こうした過去の長い歴史と文明を背景としながら、現在のシルクロードはどのような状況を呈しているのか。本稿では主にイランのカスピ海とトルコのボスポラス海峡を取り上げてみた。

■カスピ海周辺図

イランとカスピ海の資源をめぐって

イラン・イスファハーンの高校生たち

紀元前550 年にはアケメネス朝ペルシャが成立し、地中海までの広い地域をその版図に収めた。アケメネス朝はその後アレキサンダーに滅ぼされたが、以後も長い歴史の中で、支配者たちの興亡が繰り返されてきた。20世紀になってイランでは立憲革命が起こり、パフラビィー朝となった。石油の国有化や文化の西欧化が進められオイルマネーに沸いたが、1979年にホメイニ師のイラン革命によってイスラーム共和国の統治となった。1980年イラン・イラク戦争が勃発。終結には8年を要した。日本では円高不況からやがてバブル崩壊へと向かう時期に当たる。

このような時間軸の中でイランを語るのは容易なことではないが、ガイドをしてくれた30代後半の男性は、隣国イラクの戦争終結プロセスやアフガニスタンなど現在の状況も視野に入れながらこう語ってくれた。「イラン革命から25年経ちましたが、われわれの国が目指しているのは、紀元前3000年からなる文明の遺跡を守って、観光立国イランになることじゃないんですよ。歴史は興り、消え、次の歴史へと移っていくでしょう。その繰り返しです」

彼の言葉の深部は、日本人にはなかなか読み解きにくい。おそらく胸の中には、イスラーム対アメリカという抜き差しならぬ関係がのしかかっているだろう。あるいは、イランに限ったことではないが、パフラビィー朝の頃の石油資源が一部の権力者にのみ有利に働いて、一般の市民には恩恵が行き渡らなかったことにも関係があるかもしれない。そしてまた、これは彼が公言してはばからなかったが「アメリカが仕掛けてイランとイラクが敵対関係となり8年間も戦争をした」ことの愚かさや、湾岸戦争などを見るにつけ、歴史から学ぼうとしない人間に苛立っての言葉だったかもしれない。しかし、一方で彼は「イランは石油の埋蔵量では世界第2位だ」と誇らしく語った。特にカスピ海諸国と言われるトルクメニスタン、カザフスタン、ロシア、アゼルバイジャンなどカスピ海産油国との関係が、彼の頭の中にはあるようだった。産油国から各国に原油を運ぶパイプラインの建設や、同時にカスピ海諸国にある天然ガスのパイプライン建設などに、将来のイランを見ているのであろう。

トルコ・イスタンブールの朝。空のように見えるが、実はボスポラス海峡。

現在カスピ海諸国で実際に稼働しているパイプラインは、イランについて言えば原油ではなく「天然ガス」であり、トルクメニスタンとイランを結ぶパイプラインがそれである。原油は、現在のところロシアルートが稼働しているのみだと聞いた。将来的には、アメリカの思惑がどれほど働くかはわからないが、カスピ海の北ルートのロシア、南ルートのイラン、東ルートは中国まで、そして西はイランからトルコを経てヨーロッパへと広がるのではないか。

カスピ海は、地球上で最も大きな湖である。ボルガ川やウラル川が注ぎ込み、海ではないが、かすかに塩の味がする。数カ国にまたがる長大な海岸線は、エネルギー資源競争を除けばいたって静穏な美しいリゾート地である。しかし、あと数十年も経たぬうちに、これらの地域は、民族と物資と経済と宗教と情報が行き交ったシルクロードというロマンチックな呼称から転じて「エネルギーロード」となるのかもしれない。

トルコ・イスタンブール ボスポラス海峡

EU加盟の準備に忙しいトルコは、活気に満ちていた。東部にはアナトリアと呼ばれる広大な高原地帯があり、チグリス・ユーフラテス川が流れている。一方北部は黒海の温暖な気候に恵まれ、リゾート地として世界中の人々でにぎわっている。イスタンブールは、このトルコの一番西の西。北の黒海と真ん中のボスポラス海峡、南のマルマラ海が眺望できる。ボスポラス海峡をはさんで東側がアジア、西側がヨーロッパ。海峡は広いところで幅が2キロ半、狭いところは1キロ以下である。イスタンブールは、かつてローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国の首都として繁栄した国際都市である。この都市を知るにはボスポラス海峡クルーズに出ることである。トルコブルーの澄んだ海峡から東西のイスタンブールを眺めると、両岸の建造物や湾の形、海岸線などがはっきりと見える。そして時代の覇者たちが、何を夢見てこの国を手に入れたかったかまでが読み取れるような気がする。

長い歴史を誇るイスタンブールは今では二つのボスポラス大橋で結ばれ、通勤ラッシュのマイカーと観光客の大型バスがひしめき合う喧噪の街となっているが、一方でテロリストの陰が見え隠れするアジアとヨーロッパの危険な風をはらんだ「今シルクロード」でもある。

21世紀の今日、EU加盟への是非は、かつてのキリスト教国家からイスラームとなったヨーロッパの東の端の国・トルコに対する宗教的違和感が関係するとも聞いた。ボスポラス海峡はEUメンバーへの新しい橋を架けることができるのであろうか。(了)

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