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オーシャンニューズレター

第10号(2001.01.05発行)

第10号(2001.01.05 発行)

船大工の継承はできないのか

海の博物館館長◆石原義剛

およそ1万年におよぶ造船の歴史経験を船大工はもっているが、このままでは、木造船も船大工も21世紀へ継承されない恐れがある。経済性が優先される時代、木造船はほとんどがプラスチック船へと取って代わろうとしている。日本という海人の国が生んだ独自の技術集積である船とその周辺技術、さらに船を取り巻く信仰や祭祀、船によって結ばれる人々の紐帯など、船の文化が大きく変質するのを黙して見送るしかないのだろうか。

20世紀最後の『マルキブネ』

マルキブネ
2000年9月17日、中島町瀬嵐(せらし)漁港で行われたマルキブネの進水式にて。神酒を船にかけるのが澤田船大工

2000年9月17日、たぶん20世紀の最後であろう木造船『マルキブネ』の進水式を、石川県中島町瀬嵐漁港で行った。お神酒を供えて漕ぎ初めをした。呼び名は『マルキブネ』であるが、わずかに丸木舟の名残りを「オモキ」という船底角材に残した精巧な7枚板づくりの木造漁船である。前年秋、テレビニュースで"最後の木造船"を知って日を措かずに飛んで行き、体力に自信がないという船大工の澤田慶三郎(68)さんに、もう一隻"最後の木造船"の造船を無理に頼み込んで、ほぼ10ケ月になる。澤田さんは精根込めて造ってくれた。

海の博物館では三十余年にわたって、日本列島に残る無動力の『木造漁船』の収集・保存に心掛けてきた。はじめたのは昭和40年代の前半で、まだ漁村にはかなりの木造漁船が見られ、プラスチックへ急速に代わりつつある時代だったから、収集は不可能ではなかったが、収蔵する施設が十分に整ってなかった上、予算も乏しく、残念ながら、多くを集めることができなかった。その後もまだ、木造船を造ることができる船大工は相当いたが、多くの船を新造する資金を確保することはできなかった。したがって、やっと54隻(新造5隻を含む)を集めたにすぎない。

最近改めて気がつくと、当時四、五十代だった船大工もすでに七、八十代になっており、新たな木造船の建造をするには年をとり過ぎている。現在、船大工は全国の沿岸を探してもせいぜい100か、200人に過ぎぬのではないかの推測される。それも注文があれば作れるがふだんはプラスチック船づくりか、修理屋程度の仕事しかしていない。新造船の注文は皆無に近い。

船大工と彼の熟練した技術を活かし続ける方法はないものかと考えてきた。七十も過ぎて体力に自信のなくなった老船大工の多くは、船模型を作って見事な作品を残している。が、それは所詮老後の楽しみにすぎない。陸で船大工技術を転用する場所がないかと考えたが、もっとも使えそうな建築の現場はおよそ設計図もなく、経験と経験にもとづいた独自の工夫で成り立っている船づくりの手法からは程遠い。船大工を活かしその技術を消すことなく伝承するためには、やはり実物の木造船を造ることしかない。あたりまえだが、さらに造られた木造船が使われねば、また、意味がない。

日本列島には旧石器時代にすでにマルキブネがあったと考えられているから、一万年を超える造船の歴史経験を船大工はもっていることになるが、このまま推移すると、木造船と船大工は21世紀へは継承されぬことになる。

船競漕の船は木造がいいのだが

櫂伝馬
2000年8月13日、東野町にて。櫂伝馬が、いまスタート

漁船のほかに、海の木造船で以前から気になっていたのが「船競漕」用の船で、よく知られた沖縄のハーリー、長崎のペーロン、和歌山県新宮市御船祭りの櫂伝馬などの船はみな今も木造である。ほかにも全国各地に船競漕が存在するから、それらの現状と船大工の存在を調べてみようと、日本財団の研究助成をもらって調査をはじめている。現時点で確認できた「船競漕」の存在は、市町村および集落単位を併せて約240ケ所。50年前とくらべて、半分以下に減っている。漕ぎ手の高齢化、減少により、とくに神社の祭礼など地域的で伝統的なものからなくなっていくようだ。反対に、龍舟競漕とかドラゴンボートレースといわれる単なる競争を目的としたスポーツ色の強いものが各地で台頭している。わたしにとって残念なことは、船がどんどんプラスチック化していることである。とくに龍舟競漕などはほぼプラスチック船である。

もう木造船を造る船大工など必要ないのかしら。木造船は役にたたないのか。漁師や船競漕の関係者に聞くと、口を揃えて「本当は木造船がいい」と言う。がしかし、その後すぐに「でも木造船は値段が高いし、あとの維持管理が大変だから」とつづく。いずれにしても木造船からプラスチック船に変わって行く大きな理由は経済性の優先にあるようだ。

8月13日、瀬戸内海の芸予諸島、大崎上島の東野町では住吉祭の中心行事「櫂伝馬」が町をあげて行われる。江戸期中頃からの歴史をもち、いまも強く伝統を保ちつづけている櫂伝馬のひとつである。14人の漕ぎ手、太鼓打ち、台振り、剣櫂それに大櫂といわれる梶取りの18人が全長12メートルの櫂伝馬船で熾烈な競漕を繰り広げる。櫂伝馬は別名"とも綱放し"ともいわれるように、スタートの一瞬から勝負にこだわる。櫂伝馬は船の"とも(艫)"に結んだ綱を正確に同時に放して出漕する。もちろん競漕の勝負は、漕ぎ手の息の合わせ方、体力、大櫂の潮を読み風を読む操船の技術などによるが、それ以上に、船そのものによる。

東野町では地区ごとに独自に船をもち、船の保管法も独自に工夫してきた。造船の時点から船に深くこだわってきた。全長12メートルというただひとつの決まり事があるのみで、漕ぎ手たちは船大工に注文をつけ、船大工は自分の経験と技量をすべて注ぎ込んで櫂伝馬を仕上げる。勝負に負ければすべて船のせいになりかねないだけに、船大工も必死である。船材料の選択に始まり、接合法、水押しや棚板の取り付け角度など、船の速度を速めるためあらゆる工夫が凝らされる。その結果が滑るように飛ぶように海面を走る櫂伝馬船の贅肉のない姿を作り出す。しかし、一見同一に見える船もよく見ると微妙に姿が異なる。さらに漕ぎ方にも相違があって、もし、ある地区が別の地区の船に乗っても決して良い結果がでることはないだろう。同じ船競漕でも、龍舟競漕やドラゴンボートレースが大きさも型も同じプラスチックの船を使って、競争条件を公正にしているのとは根底で異なる。道具という意味だけなら、プロ野球の木製バットと高校野球の金属バットの違いを考えさせる。

船は生き物

先日、NHKの「熟練技術はロボット化せよ」(11月22日)という番組で、巨大鋼鉄船の造船技術に木造船の"板曲げ"の技術が活きている現場を見た。厚さ5センチの鉄板を火と水だけで曲げて、微妙かつ複雑な曲面を造り出す熟練の技である。彼はこの技を「板曲げ」と呼び、「鉄は生き物」という。まさに船大工の『木は生き物』という板曲げ技術そのものである。船大工が山で船材の伐り出しに立ち会うとき、木霊に御酒を供え、船が進水するときまた御酒を船霊にお供えするように、船は生き物として考えられてきた。

日本列島ではいつか遠い未来に、必ず船を木で船大工という人間が造る時代が帰ってくる気がするが、なんの根拠もあるわけではない。あるとすれば、木と船大工に対する親しみと信頼感である。木で造った船への愛着である。船を造った船大工という人間への愛惜である。単に浮き進む船のみを必要とするなら、もう船大工の時代は20世紀で終わりだろう。日本という海人の国が生んだ独自の技術集積である船とその周辺技術、さらに船を取り巻く信仰や祭祀、船によって結ばれる人々の紐帯など、船の文化が大きく変質するのを黙して見送るしかないのだろうか。なにか大きなものを失って行く気がしてならない。

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