Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第10号(2001.01.05発行)

第10号(2001.01.05 発行)

海の邦・沖縄が甦る

沖縄県企画開発部参事◆上原良幸

新世紀を迎え、わが国にも、海洋との共生を果たすための具体的な戦略を打ち出すことが求められている。かつてアジアの海を駆けめぐり、大交易ネットワークを築き上げた沖縄は、しかし、その潜在的な可能性を有しながらも、これらは十分に活かされていただろうか。「万国津梁」。首里城内の梵鐘に刻まれていた、先人たちのこの気宇壮大な心意気をいまこそ思い起こし、われわれは沖縄の自立的発展とわが国ひいてはアジア太平洋地域の発展に寄与することを目指したい。

はじめに

「万国津梁」。首里城内の梵鐘に刻まれていたこの気宇壮大な心意気こそ、五百年遡る琉球王国の大交易時代、アジアの海を駆けめぐったわが先人たちのものであった。世界の国々を繋ぐ架け橋という意味であるが、昨年、沖縄で開催されたG8サミットの意義を表すのにこれ以上ふさわしい標題はなく、その会議場も万国津梁館と名付けられたのである。

「いざゆかんわれらが家は五大州」。移民の父・当山久三の百年前のこの雄叫びは、人生の夢と希望を求めて遠く海をも渡る、という海外雄飛の覇気に溢れていた。

時代は、沖縄の潜在的な可能性を膨らませながら世紀を跨いだ。ここをとらえて展望を切り開くために、これら先人たちの気概をいまに甦らせたい。

四囲を海としながら、定住する農の民であり続けた日本。われわれは、その来し方、あり方を相対化する視座を保持しつつ新世紀・沖縄像を描くとともに、この国の将来発展の一翼を担いたいと思う。

海を越えたパイオニアたち

日本で南北朝が統一され、朝鮮半島で李氏朝鮮が登場した14世紀後半、すでに成立していた中国の明朝は、周辺諸国・地域を臣下とみなす册封体制を布いた。そして、自らは海禁政策をとって中国商人の海外貿易を禁じたため、册封体制に組み込まれた周辺諸国・地域が貢ぎ物を献上するかたちの朝貢貿易が生まれた。

群雄割拠の時代を経て1429年に成立した琉球王国は、そのシステムを最大限活用して大交易時代を画し、隆盛ぶりを「以舟楫為万国之津梁  異産至宝充満十方刹(船と梶をもって万国の架け橋となり、財宝が満ちあふれている)」と、誇らしく謳い上げていた。

シャム、マラッカまで拡がるこの交易ネットワークを通じてもたらされた文物が、料理や泡盛、漆器、芸能、空手など琉球を冠した特色ある伝統文化の礎となった。

四季の移ろいを待つ生業の中で自然との調和に粋を極める日本文化圏から離れ、南海の小国はアジア各地を駆けめぐって様々な要素を取り入れ多様なチャンプルー(ごちゃ混ぜ)文化を創り上げたのである。

その文化ではなく、武の勢いによって「動かない農の民」が「動き回る海の民」を配下に収めることになる。1609年薩摩は琉球に侵攻して、その独立を奪い、実質的な支配権を確立した。こうして、琉球は徳川幕藩体制下の"異国"として存続することになったが、わがパイオニアたちは海の民の矜持を胸に、明に代わる清朝との交流を続けていく。この時期、琉球とアジアを結び、時代の遺産を残した人物をここに紹介したい。

日本の華岡清州に先立つこと百年、中国で学んだ麻酔薬を用いての外科手術に成功した高嶺徳明。後年、本土で薩摩イモと称され普及した芋を、中国から最初に持ち帰り栽培した野国総官。同じくサトウキビを持ち帰り、今日に至る製糖産業の祖と称えられる儀間真常。中国で学んだ陽明学や風水などを治世に活かした王国最大の政治家、蔡温。これら名をなした偉人のほかにも、航海、交渉そして通訳などの分野に一線級の使い手が登場していたに違いないが、海の民はあまり記録しないものである。要は、これら名もなき人々の航跡もたどりつつ、当時の時代精神といったものを浮き上がらせることだ。

閉ざされ続けた海

明治維新によって沖縄県が誕生し、400年続いた琉球王国は形式的にも終わりを告げた。列強諸国に伍して富国強兵を進める日本の一県となった沖縄に、もはや海を自由に往来して冨をなすことなど望むべくもなかった。それどころか、日本の国力の増強とともに周辺の波は高くなり暗雲がたちこめてきたのである。

1945年4月、沖縄に照準を合わす米艦隊が四方の海を覆い尽くした。いままでの豊穣の海が、いまや恐怖の海と化したのだ。その後、3ケ月にわたる日米両軍の地上戦は、一般住民を巻き込んで地獄絵図さながらであったという。

戦後、米国は沖縄を軍事戦略上の拠点「太平洋の要石」とすべく、基地の増強を続け、住民生活も基地に依存する経済体制に組み込まれた。以来、沖縄は誰よりも平和を望みながらも、基地の重圧に耐え続け、その桎梏から逃れられずにきた。もちろん、航海の自由などなく、本土への渡航さえ制限されたのである。

この間、日本は国の防衛・安全保障を沖縄に託して経済発展に専念、海外への製品輸出や企業進出によって世界有数の経済大国へと登りつめた。

1972年沖縄は本土に復帰。ただちに、本土との格差是正を図るため猛烈な公共投資が行われ各種の社会資本は充実していった。しかし、これらは遅れを取り戻す手法ではあっても、日本の中で際だった個性・特性を有する沖縄のアドバンテージを引き出すものとはならなかった。

海を活かす戦略は、ついに持ち得なかった。復帰記念の国際海洋博覧会や海邦国体などイベントのテーマや冠にはなったが、その利活用の方向を示すことができず、手つかずの海が沖縄観光の売りものになっているだけである。近世に入り閉ざされ続けた沖縄の海は、いまだ開かれてはいないのだ。

海の邦の再興

今年最大の県内行事が、11月に開催される「世界のウチナーンチュ大会」である。5年ごとに開かれるこの行事も3回目を数えるが、海外30万余のウチナーンチュ(沖縄の人)を代表して参加される同胞たちを心から歓迎したい。幾多の困難を乗り越え今日の地位を築いた彼らこそわれわれの誇りであり、その絆を深めていくことこそが他県にはないグローバル化へのステップなのだ。

浜下武志が言うように、はるか昔から、海の理と海の利を見つめつづけ、それらを陸に提供しつづけてきたウチナーンチュの時空を越えるネットワークの構築によって、これからの沖縄は一層独自の役割を果たすことができるだろう。

新たな世紀では、内と外、人と自然、環境と産業、伝統と現代、等々いろんな側面で交流と共生が求められるようになり、経済発展と文化の在りようをめぐって決断が迫られるのではないか。はるか大交易時代からの進取の志を甦らせ、苦難の歴史の中で常に人々を鼓舞してきた伝統文化が一層の輝きを見せたとき、沖縄は新世紀のフロントランナーに躍り出ているはずだ。

これまで育んできた海洋文化を継承発展させていくことが重要であり、新時代の構想の中で具体的な戦略を打ち出していかなければならない。公共事業の見直しが求められているなか、水産振興の枠を越えてマリーナやフィッシャーマンズワーフの整備等が可能となれば、遊休化した那覇軍港は魅力ある観光スポットに生まれ変わるだろう。海洋深層水の多面的利用によってヘルス・ケア分野など新たな産業を輩出するとともに、与那国島の海底遺跡にストーリー性を加えて売り出すなど余りある海洋資源を有効に活用したい。また、尖閣諸島の共同開発を日中台の国際協力スキームのもとに進め、逼迫するエネルギー事情に対処したい。さらに、海の生態や環境に関する国際水準の研究センターを設置しその研究成果を発信することによって、アジア太平洋地域の研究交流拠点形成への端緒を開くのである。

これらの項目を組み込むことによって、沖縄の自立的発展とわが国ひいてはアジア太平洋地域の発展に寄与していくことを目標とする県の新たな構想は、大きな膨らみをもつことになろう。

なぜ沖縄が、軍事戦略上の拠点となってきたのか。その位置をみれば明らかだろう。新世紀に臨んで、われわれは、この基地の島を「アジア太平洋・平和の交流拠点」へと転換していく決意である。それが実現したとき、海の邦・沖縄が甦るのだ。

参考文献

1.沖縄県教育委員会「高校生のための沖縄の歴史」

2.琉球銀行「琉球のパイオニア」

3.総合研究開発機構「沖縄振興中長期展望についての検討調査報告書」

4.木村尚三郎「耕す文化の時代」

5.川勝平太「文明の海へ」

6.浜下武志「沖縄入門-アジアをつなぐ海域構想」

第10号(2001.01.05発行)のその他の記事

ページトップ