Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第109号(2005.02.20発行)

第109号(2005.02.20 発行)

海はだれのものかを考える
-実践知識と環境への権利-

北九州市立大学文学部人間関係学科助教授◆竹川大介

宮古島における観光ダイバーと潜水漁師の確執をもとに、自然観の違いや海の利用権を考える。
そして資源に対する実践知識によって保証されるあたらしい環境への権利のありかたを提案する。

宮古島ダイビング問題の背後にあるもの

1996年8月「宮古島ダイビング問題」と呼ばれるダイビング業者と漁民の間での海の利用を巡るトラブルがテレビニュースを通じて全国報道された。日本各地の漁業が大型化し遠洋化を進めるなかで、宮古島周辺は八重干瀬(やびじ)をはじめとする豊かな漁場に支えられ、沿岸漁業とりわけ潜水漁が盛んにおこなわれていた地域である。1990年代にはいって、漁業の高齢化が進むとともに、観光ダイビング業が急速に増加していった。そうした過程で漁民たちの意識のなかに潜在的な不安や危機感が生まれ、それが確執の発端となったのである。

行政や漁協は、裁判や仲裁者を通して、漁業権や金銭補償によってこの問題の解決を探ってきた。しかし、個人の潜水漁師の誇りや不安は必ずしも補償によって解消されるものではなかった。こうしたやり取りの中で「海はだれのものか」という問いかけが、観光産業と漁民の双方からなされたが、残念なことにこの根元的な提起は、利用料を議論する場ではあまりに抽象的で漠然としており、結局、交渉の過程で積み残されてしまった。

たまたま調査を通じてそうした現場に居合わせた私は、人類学的アプローチによって、両者の文化を翻訳していくことができないだろうかと考えた。すなわち、潜水漁業者とはどういう人々で、彼らにとって海とはどんな存在か、それが観光ダイバーたちの持つイメージとどう異なっているのかを示すことによって、問題解決の糸口を見いだそうと思い至ったのである。

観光ダイバーと潜水漁師の自然観の違い

実際の聞き取りを進めるうちに、両者の自然や海に対する意識には対照的な違いがあることが明らかになっていった。

観光ダイバーにとって宮古の海は一種あこがれの世界であり、普段の仕事の疲れを癒すためにお金を払ってすごす非日常の場である。彼らは美しい海を愛でるために、一年のうち数日、遠路はるばるこの地を訪れるのである。しかし漁民が見ている海は、一年を単位とした連続した季節サイクルのなかにある。彼らはほぼ毎日出漁し、海は生活の糧をえるための日常的な場所である。

また「自然を愛する」ダイバーたちの中には、海に対する人間の介入を嫌い、一本のエダサンゴを折るのにも罪悪感を持つ人々がいる。たとえば、ダイビングショップは船を停泊するときにアンカーが珊瑚礁を傷つけないように神経をつかっている。一方で漁師たちは、一人の人間の心がけを超えたものを自然の営みに感じている。エダサンゴは台風が来れば自然に折れるし、ひとたび海水温が上昇すれば激しい白化がおきる。しかし、同時にこうした自然の循環による破壊は、きれいな海さえ残っていればいずれ回復すると考える。むしろ海の不可逆的な破壊は、都会からの排水や港湾の工事など、海の生活から離れた町の人間の活動によって起きていることを指摘する。

観光ダイバーにとって美しい自然とは人の手が届かない非日常の世界だが、祖先の時代から代々同じ海で潜ってきた潜水漁師にとって生活と切り離された海の存在などありえない。

海を知っている者こそ海を利用できる

それでは、こうした意識の相違をどのようにすりあわせていけばよいのだろうか。そして、そもそも海に対する権利はなにによって保証されるべきなのだろうか。

すでに述べたように漁業者の誇りや不安を漁業権などの経済的な補填におき替えるという解決方法では、この相違は埋められない。また、生活の視点を欠いた自然愛護論が現実に対して説得力を持たないことも、先に見たとおりである。自然保護と生活は矛盾するものではないし、双方の主張はどちらも「自分たちこそが自然を守っている」というものだった。

では漁民たちが「自分の海」と語るその背景や根拠とはなんだろうか。たとえば彼らにはほんの小さな岩の割れ目まで知り尽くしているという自負がある。タコ穴やコウイカの産卵場所など、父から子へ子から孫へと、世代を越えて受け継がれてきた知識は数多くある。そしてこうした秘密の知識は、同じ漁業者間であっても隠されてきた。すなわち、漁民にとっての海の所有意識とは、特定の海域の独占や、法的に保証された海産物の経済的な利権からくるものというよりは、むしろ個人が持つ多彩な知識そのものが根拠になっていると考えられるのである。

竹川大介「実践知識を背景とした環境への権利-宮古島潜水漁業者とダイバーの確執と自然観」平成15年3月より

いいかえれば「海の権利は、資源に対する実践知識によって保証される」となる。ここでいう実践知識とは、身体性をふくむ一種のプラクシス(習慣的行動様式)をさす。したがって、それは言語によって体系化される狭義の「知識」にとどまらず、しばしば「知恵」と称される概念に近いものといえる。すなわち利用者個人が持つ知識こそが財産であり、それをもとに共同利用者どうしが互いの権利を尊重し保証しあうという「開かれた」システムなのである。

漁民自身の身体に刻み込まれた「知識」は、実際には土地の名前、魚の行動、潮の流れなど、さまざまな外部の生態学的な「自然」との統合によってはじめて意味をなす。そして彼らの海の生活は、まさにこうした実践知識の経験的な蓄積によって成り立っている。したがって彼らにとって海を利用するための「権利」とは、そのために不可欠な「実践知識」とほぼ同等のものとして結ばれているのである。

陸の発想ではなく海からの発想を

このような資源利用に対する権利の考え方は、陸からの発想ではなかなか生まれない。一定の土地を境界で囲い込むことによって誕生した近代社会の地権は、特定の所有者によって登記された排他独占的な「所有」を前提に成り立っている。いわば土地を基盤に生産をおこなう牧畜民や農耕民的発想である。しかし海は、共同の権利をもつ者が誰でも利用できるいわば入会地のようなコモンズであった。海という流動的な環境ではむしろ生態人類学が明らかにしつつある狩猟採集民の利用形態に共通する世界観が有効である。

一連のトラブルは漁協と観光業者が協定を交わし、ひとつの政治的な解決が図られた。しかし、同じ海を利用するものとして両者の相互理解を進めることはこれからの課題として残されている。そこでは互いの自然観を学びあうという地道な作業が必要となるだろう。そして、こうした相互理解によって生まれた共通認識こそ、誰もが納得する新しい「環境への権利」を創造するものであると私は考えている。(了)

【参考文献】

竹川大介、「実践知識を背景とした環境への権利-宮古島潜水漁業者と観光ダイバーの確執と自然観」『国立歴史民俗博物館研究報告書』105、p89-122、平成15年3月

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  • 編集後記 ニューズレター編集代表(総合地球環境学研究所教授)◆秋道智彌

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