Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第161号(2007.04.20発行)

第161号(2007.4.20 発行)

「海はみんなのもの」について考える

ふるさと東京を考える実行委員会事務局長◆田中克哲

1. 実は、漁業者同士は互いに譲り合って海を利用している

海の利用は、漁業紛争の歴史でもある。漁場の利用をめぐり、漁民同士が激しい対立を起こし、流血事件を起こすこともたびたびであった。そして効率的漁法の出現は、乱獲を招き、漁業生産の低下を招いた。公共用水面だからといって誰もが勝手に漁業をしたのでは、いわゆる「共有の悲劇」が起こり、水産資源の持続的利用は到底望めない。このような中で漁民は「磯は地付き、沖は入会(いりあい)」の基本理念にのっとってルールづくりを行い、互いに譲り合って海を利用してきている。

そんな譲り合いの中で調和が保たれている海面に、一般市民が突然やってきて、「海はみんなのもの」「みんなが自由に使えるはずだ」「法的に問題ないなら何をしてもいいはずだ」などと主張し、地元では自主的に禁止しているウェットスーツを着たり、輪番で利用されている漁場にいかり止めをして釣りを行えば、漁業者が反発するのは当然のように思う。

2. 海は誰のものか

「海は誰の所有物でもない」ことは、次に記述するように最高裁判決によりはっきりしている。

(1)「海面の所有権」について―公共用水面に所有権は設定できない。

「海は誰かの所有物か」という法律上の性質については、最高裁昭和61年12月16日判決で、それまでの論争に終止符をうつ明快な判決が出ている。田原湾干潟訴訟判決と呼ばれる判決の内容は「海は、古来より自然の状態のままで一般公衆の共同使用に供されてきたところのいわゆる公共用物であって、国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないもの」と判示した。つまり、海は、誰の所有物にもならないのであり、売ったり、買ったり、貸したりということはできないのである。

これが「海は誰のものか」という質問の回答になっているかというと、一概にそうともいえない。というのは「海は誰のものか」という議論、実は二つの観点から行われることが多いからである。一つめは、「海は誰の所有物か」あるいは「海面に所有権が設定できるのか」というもので、これは最高裁により否定されている。

ところがもう一つの観点は、「海は特定の人の所有物ではないのだから国民の誰もが、自由に、潮干狩りやダイビング等の海の利用を行うことが、なぜできないのか」というものである。

両者は一見似ているようであるが、そこには大きな違いがある。なぜなら前者は「公共用水面に物権の一つである「所有権」が設定できるか」という限定された問題であり、後者は、「公共用水面に何らかの権利が設定できるか」という問題だからである。

(2)「海面に設定される権利」について―公共用水面には、漁業権等が設定できる。

海には特定の人の所有権が認められないとすると、国民の誰もが、自由に、水域や磯や海岸を選んで、潮干狩りをしたり、ダイビングをすることができるはずだ。しかし実際には、そうなっていないのはなぜなのかという疑問を持つ人も多いように思う。実際、潮干狩りやダイビング等では、地元の漁協に免許されている漁業権が設定されている水面を利用する場合には、漁業協同組合などの了解を得たり、一定の料金を支払ったりする場合も多い。なぜ、「誰の物でもない」海でお金を支払わなければならないのか? 現実にこうした国民の疑問を背景として、海を利用してマリンレジャーを楽しみたい人と、地元漁業者、漁協との間で、いろいろなトラブルが起きている。

しかしながらここで気を付けなくてはならないことは、最高裁判決では、「海は公共用物であって排他的支配権である土地所有権の設定は許されない」としているものの、支配権ではない性質を持つ権利の設定についてはこれを否定していない。現実問題としても物権とみなされる漁業権は、漁業法に基づき、公共用水面に設定されているのである。

すなわち、「海は誰の物でもない」つまり「海に排他的支配権である土地所有権が認められないこと」とは、「海には特定人が権利を持つことはできない」としているのではないのであって、「漁業を排他的に行うことを権利の内容とし、物権とみなされる漁業権や入漁権」の存在を否定しているものではないことに注意する必要がある。

3. なぜ、漁業権が法的に保護されなければならないのか

漁業権をなぜ法的に保護しなければならないか考える前提として「海はみんなのもの」という考え方について少し検討が必要である。実は「海はみんなのもの」という場合の「みんな」の範囲の考え方が一般市民と漁業者において異なっていて、それが両者の誤解を生み、対立のもとになっているようであるからだ。

例えば、ダイビングや磯遊びを行っていた者が、漁業者から注意されたとする。そうすると一般市民(多くは地元市民でなく、都市住民である)は「海はみんなのもの」と主張し、地元漁業者(あるいは地元漁業集落共同体構成員)は「海は俺たちのもの」と主張する。そうするとマリンレジャー側は、「海は元来公共用水面である」と主張し、漁業者側は「俺たちには漁業権がある」と主張し始める。

こんな議論について考える場合、「海はみんなのもの」という時の「みんな」とは、どの範囲の「みんな」なのか? ということの整理が必要になってくる。つまり「みんな」の範囲というものは、全世界の「みんな」なのか、日本人の「みんな」なのか、地元の「みんな」なのかということである。

海洋の利用方法については、国連海洋法条約に基づき、公海については世界中の「みんな」が自由にこれを利用する権利を有している。そういう意味で「公海は、世界中の人々、みんなのもの」である。ただし、すべての海洋が世界のみんなのものではなく、沿岸国主義も認められている。それは、各国の距岸200カイリの「排他的経済水域」や距岸12カイリまでの「領海」であり、前者については一部、後者については全面的に沿岸国に主権あるいは主権的権利を認めている。このように、沿岸国の主権あるいは主権的権利が認められてきた背景には、日本の遠洋漁業が「海洋はみんなのもの」として他国の領海(当時は3カイリ)ぎりぎりの海域で大型船を操業させていたこととも大きく関係している。

そして、わが国の沿岸域の利用もこの海洋法条約の考え方と類似の海の利用をしてきている。それは江戸時代から伝わる「磯は地付き、沖は入会」の考え方であり、領海の沖合い部分については日本国民みんなの入会が認められているが、ごく沿岸の部分については、「地付き」すなわち沿岸部の漁業集落共同体の構成員に管理を任せるという考え方が、漁業権にも引き継がれていて、漁業法はこの地元漁業集落共同体による前浜の管理を漁業権として法的に保護しているといえよう。

こうしてみると、マリンレジャーを楽しみたいとする国民一般は「海は日本国民みんなのもの」と主張し、漁民側は「領海は日本国民みんなのものではあるものの、それぞれの地区の前浜は、地元漁業集落共同体構成員みんなのもの」という主張していると置き換えて考えてみれば、両者とも海は「みんなのもの」とする考え方に、基本的な一致点を見出すことが可能なことがわかるのである。(了)

第161号(2007.04.20発行)のその他の記事

ページトップ