随想一筆
BBNJの保全と持続可能な利用
生態系から得られる恵みを長期・継続的に利用するためには、健全な生態系を維持、管理していくことが重要であることは言うまでもない。今年1月中旬、前川はシンガポールへ飛び、「国家管轄権外区域の海洋生物多様性」(BBNJ)の保全と持続可能な利用に関する政府間会議について講演し、進捗状況などを説明した。
「国家管轄権外区域」とは、端的に言えば公海と深海底を指す。一方、領海や接続水域、大陸棚、排他的経済水域(EEZ)は沿岸国の管轄権が及ぶ「国家管轄権内区域」であり、これについては生物多様性条約で、生物多様性の保全と持続可能な利用に関する一定のルールが規定されている。しかし、海洋のおよそ3分の2を占める国の管轄権が及ばない公海と深海底の生物多様性に関しては、包括的なルールがない。このため国連海洋法条約の下で法的拘束力がある国際的な協定を策定する重要性が指摘されてきた。2015年の国連総会決議を受け、協定の策定へ向け交渉する政府間会議が2018年9月、ニューヨークの国連本部で開始され、これまでに3回の会合を重ねている。今年の3月末から4月初めにかけて予定されていた4回目の会議が〝最終回〟となり、一応の区切りが付けられるはずだったが、交渉そのものは難航しており合意形成が危ぶまれている(この会議は新型コロナウィルスの影響で延期されている)。
議論されているのは①海洋遺伝資源②海洋保護区を含む区域型管理ツール等の措置③環境影響評価④能力構築、海洋技術移転―の4テーマ。ほとんどの部分で各国の意見がまとまっておらず、交渉過程で鮮明になっているのは「先進国対途上国」という〝南北対立〟の構図である。
「国家管轄権外区域」とは、端的に言えば公海と深海底を指す。一方、領海や接続水域、大陸棚、排他的経済水域(EEZ)は沿岸国の管轄権が及ぶ「国家管轄権内区域」であり、これについては生物多様性条約で、生物多様性の保全と持続可能な利用に関する一定のルールが規定されている。しかし、海洋のおよそ3分の2を占める国の管轄権が及ばない公海と深海底の生物多様性に関しては、包括的なルールがない。このため国連海洋法条約の下で法的拘束力がある国際的な協定を策定する重要性が指摘されてきた。2015年の国連総会決議を受け、協定の策定へ向け交渉する政府間会議が2018年9月、ニューヨークの国連本部で開始され、これまでに3回の会合を重ねている。今年の3月末から4月初めにかけて予定されていた4回目の会議が〝最終回〟となり、一応の区切りが付けられるはずだったが、交渉そのものは難航しており合意形成が危ぶまれている(この会議は新型コロナウィルスの影響で延期されている)。
議論されているのは①海洋遺伝資源②海洋保護区を含む区域型管理ツール等の措置③環境影響評価④能力構築、海洋技術移転―の4テーマ。ほとんどの部分で各国の意見がまとまっておらず、交渉過程で鮮明になっているのは「先進国対途上国」という〝南北対立〟の構図である。

第2回BBNJ政府間会議の様子
ここでは海洋遺伝資源に焦点を当てる。海洋には膨大な数の多様な生物種が生息しており、微生物だけでも約1028個にのぼるという数字があり、その大部分は深海に存在するという。遺伝子工学の発展に伴い、一部の微生物の遺伝子はすでに、抗がん剤や鎮痛剤といった医薬品、化粧品、食品などの開発に応用されている。例えば、1980年に深海底の105℃という高温の熱水噴出孔で発見された、俗に「ポンペイワーム」と呼ばれる生物は毛羽に覆われており、そこに〝共生〟するバクテリアの遺伝子を応用した化粧品が開発されている。「海洋遺伝資源」と呼ばれるゆえんだ。解明されていない未知の生物種は多く、潜在的な実用・商業価値も高いとみられている。
深海は高水圧で、太陽光が届かず低温であり、熱水噴出孔からは高温でメタンや硫化水素、重金属などを含んだ熱水が噴き出している。こうした「極限環境」の下で生息できる「極限環境生物」の遺伝子には、耐熱作用や保湿効果などをもたらすものがあり、深海微生物に由来する耐熱酵素が研究用試薬として製品化されてもいる。しかし、海洋特許の98%を上位10カ国が独占しているというデータもあり、海洋遺伝資源の利用から得られる利益を、いかに公正に配分するかが大きな課題となっている。そのような海洋遺伝資源にアクセスし研究開発を進めるうえでは、高度な技術と莫大な資金を要することから、海洋遺伝資源から得られる利益を事実上、先進国が独占する状態が固定化しかねない。
深海は高水圧で、太陽光が届かず低温であり、熱水噴出孔からは高温でメタンや硫化水素、重金属などを含んだ熱水が噴き出している。こうした「極限環境」の下で生息できる「極限環境生物」の遺伝子には、耐熱作用や保湿効果などをもたらすものがあり、深海微生物に由来する耐熱酵素が研究用試薬として製品化されてもいる。しかし、海洋特許の98%を上位10カ国が独占しているというデータもあり、海洋遺伝資源の利用から得られる利益を、いかに公正に配分するかが大きな課題となっている。そのような海洋遺伝資源にアクセスし研究開発を進めるうえでは、高度な技術と莫大な資金を要することから、海洋遺伝資源から得られる利益を事実上、先進国が独占する状態が固定化しかねない。
〝南北対立〟
政府間会議で途上国側は、海洋遺伝資源は「人類共通の財産」であり、利益は公平に配分されるべきだと主張している。これに対し、先進国側は海洋遺伝資源の取得は「公海の自由」の原則に基づき自由であるべきだとしている。海洋遺伝資源に関する知的財産権についてこの新協定で規定するべきか否かも争点となっている。
「公海、深海底の海洋遺伝資源が商品化されている中で、遺伝資源を先進国が独り占めすることは不公正で、鉱物資源と同じように、利益を皆に広く分配すべきだというのが途上国の発想、意見なわけです。先進国の方は例えば、製薬会社などが海洋科学調査を行い、いろいろなものを採取してラボに持ち込んで、その成分から薬などの商品開発につなげるわけですが、船を1回出すのにも数千万円かかり、研究開発における先行投資は大きい。そうした中で、何らかの規制をかけられることはマイナスだという立場であり、それであればEEZにも様々な生態系が生息しているのだから、わざわざ公海の深海底で採取しなくてもいいのではないか、という発想にもなりかねない。利益配分についても、民間会社が世界の国に利益を配分するというのは現実的ではないと考えている。途上国としてはなるべく多くの活動を規制と利益配分の対象にしたいが、先進国としては公海の自由の原則に基づき自由にやりたいということです」
新しい協定の適用範囲についても、先進国は「深海底」だけだとし、途上国は「公海と深海底」とするよう主張している。
「海洋遺伝資源の採取というのは、広大な場所を掘り尽くす鉱物資源の採取とは違い、バケツ1杯でもDNA情報が取れ、環境に配慮したやり方もできる。このため許可制ではなく届出制でいいのではないか、という意見もあります。海洋遺伝資源をめぐり非常に揉めており、まったく妥協点が見えておらず、協定が採択されるまでにはまだ先が長いと思っています」
公海域の深海底鉱物資源については、国連海洋法条約の下で「国際海底機構」(ISA)が一元管理しており、探査権が付与され一定の国が探査活動などを行っている。しかし、BBNJでは海洋保護区の設定や環境影響評価をめぐり「誰がどう決めるのか、意思決定のメカニズムをどうするかが全然見えない」という。意思決定などのための新たな国際機関や資金メカニズムを立ち上げることには、資金拠出と自国の行動が制約されることを避けたい米国や日本などが異論を唱え、途上国と対立している。「制度づくりが非常に大変です。何年も前に聞いた議論が、また行われているという感じです」と、前川も頭を抱える。さらに途上国側は、先進国が環境影響評価などに関する能力構築や技術移転を支援するのであれば、それと引き換えに、海洋遺伝資源の開発や海洋科学調査をある程度自由に行うことを容認する姿勢を示し、「ディールになっている」というから複雑である。
前川はこの政府間会議にどのように関わっているのか。
「少し前までは、外務省や有識者、JAMSTEC(海洋研究開発機構)などBBNJに関わる方々を招いて『公海ガバナンス研究会』を開き、BBNJの会合の前に作戦会議を開いたり、会合修了後に総括をしたり、グループとしての提言書を出したりしていました。シンクタンクである海洋政策研究所の役割としては、交渉の一助となるように、事実に関する情報を整理、分析して日本政府などの交渉担当者に提供し、国際海底機構の環境影響評価に関する取り組みや、漁業機関の取り組みなどについても説明しています。サイドイベントの開催も通じて、交渉を少しでも前に進めるためにサポートしています」
政府間会議の交渉は何合目かと訊ねると、「3合目くらいですかね」という答えが返ってきた。果たして、4回目の会合で大きな前進がみられるのだろうか。マンデートの延長も予想される中、交渉に対する前川の後押しはまだまだ続きそうだ。
「公海、深海底の海洋遺伝資源が商品化されている中で、遺伝資源を先進国が独り占めすることは不公正で、鉱物資源と同じように、利益を皆に広く分配すべきだというのが途上国の発想、意見なわけです。先進国の方は例えば、製薬会社などが海洋科学調査を行い、いろいろなものを採取してラボに持ち込んで、その成分から薬などの商品開発につなげるわけですが、船を1回出すのにも数千万円かかり、研究開発における先行投資は大きい。そうした中で、何らかの規制をかけられることはマイナスだという立場であり、それであればEEZにも様々な生態系が生息しているのだから、わざわざ公海の深海底で採取しなくてもいいのではないか、という発想にもなりかねない。利益配分についても、民間会社が世界の国に利益を配分するというのは現実的ではないと考えている。途上国としてはなるべく多くの活動を規制と利益配分の対象にしたいが、先進国としては公海の自由の原則に基づき自由にやりたいということです」
新しい協定の適用範囲についても、先進国は「深海底」だけだとし、途上国は「公海と深海底」とするよう主張している。
「海洋遺伝資源の採取というのは、広大な場所を掘り尽くす鉱物資源の採取とは違い、バケツ1杯でもDNA情報が取れ、環境に配慮したやり方もできる。このため許可制ではなく届出制でいいのではないか、という意見もあります。海洋遺伝資源をめぐり非常に揉めており、まったく妥協点が見えておらず、協定が採択されるまでにはまだ先が長いと思っています」
公海域の深海底鉱物資源については、国連海洋法条約の下で「国際海底機構」(ISA)が一元管理しており、探査権が付与され一定の国が探査活動などを行っている。しかし、BBNJでは海洋保護区の設定や環境影響評価をめぐり「誰がどう決めるのか、意思決定のメカニズムをどうするかが全然見えない」という。意思決定などのための新たな国際機関や資金メカニズムを立ち上げることには、資金拠出と自国の行動が制約されることを避けたい米国や日本などが異論を唱え、途上国と対立している。「制度づくりが非常に大変です。何年も前に聞いた議論が、また行われているという感じです」と、前川も頭を抱える。さらに途上国側は、先進国が環境影響評価などに関する能力構築や技術移転を支援するのであれば、それと引き換えに、海洋遺伝資源の開発や海洋科学調査をある程度自由に行うことを容認する姿勢を示し、「ディールになっている」というから複雑である。
前川はこの政府間会議にどのように関わっているのか。
「少し前までは、外務省や有識者、JAMSTEC(海洋研究開発機構)などBBNJに関わる方々を招いて『公海ガバナンス研究会』を開き、BBNJの会合の前に作戦会議を開いたり、会合修了後に総括をしたり、グループとしての提言書を出したりしていました。シンクタンクである海洋政策研究所の役割としては、交渉の一助となるように、事実に関する情報を整理、分析して日本政府などの交渉担当者に提供し、国際海底機構の環境影響評価に関する取り組みや、漁業機関の取り組みなどについても説明しています。サイドイベントの開催も通じて、交渉を少しでも前に進めるためにサポートしています」
政府間会議の交渉は何合目かと訊ねると、「3合目くらいですかね」という答えが返ってきた。果たして、4回目の会合で大きな前進がみられるのだろうか。マンデートの延長も予想される中、交渉に対する前川の後押しはまだまだ続きそうだ。