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オーシャンニューズレター

第6号(2000.11.05発行)

第6号(2000.11.05 発行)

なぜ、美しい海岸は消える?
~沿岸域で起きている問題の解決に向けての展望~

建設省土木研究所河川部長◆宇多高明

わが国では、激しい侵食に対して、海岸防護のために毎年約2000億円もの予算が投入されている。それにもにもかかわらず、コンクリートブロックで覆われた海岸ばかりが生まれるだけで、自然海岸の喪失が現在もなお続いているのはなぜか。美しい海岸を取り戻すためには、どうしたらいいのだろうか。

海に囲まれたわが国。だが日本人は本当に海洋民族と言えるか?

「水に流す」という言葉がある。小さな頃、洪水時に家のまわりのゴミを集めて川に流すのをしばしば見かけたものである。川は海に注ぐために、川を流下するゴミは海へ出てから海岸線に漂着する。したがって、当然、河口周辺海岸には大量のゴミが漂着する。現在では日本中どこの海岸に出かけても海岸線にプラスチックゴミの見あたらない場所はなく、また、田舎の海岸では、時として臭いいやなにおいを嗅ぐ。砂浜でゴミを燃やしているのである。漂着ゴミの燃えかすなどで多くの海岸は汚れている。

夏の一時期、海浜は多くの海水浴客でにぎわう。しかし秋や冬の海岸では人は少ない。要するに海や海岸への人々の関心が低いと言わざるを得ない。日本人は海洋民族とは言えず、単に日本列島の縁辺の境界条件として海が存在しているに過ぎないように思われる。そのような潜在意識の中で、高度成長期には多くの海岸工事が行われてきた。

海岸・沿岸域での多くの投資によって本当によくなってきたのか?

海岸では、物流の確保や漁業利用のために、港湾や漁港の整備が進められ、現在その総数は港湾が約1000港、漁港が約3000港にまで至っている。それらはそれぞれの目的を達成するために造られてきているから、それ自体の効果についてはここでは触れない。しかし、砂浜性海岸における施設の建設の過程で多くの侵食問題が発生し、自然海浜の喪失をもたらした。激しい侵食に対して、海岸防護のために毎年約2000億円もの予算が投入されている。それで、実際に国民に誇れるような海岸が出現したか。否であろう。実際は、大量のコンクリートブロックで覆われた海岸や、規模の大きな人工海岸が創出され、自然海岸の喪失は現在もなお続いている。

海洋・海岸についての科学的知識の集積が問題解決に繋がるか?

問題の解決においては科学的な面からの研究が必要なことは言うまでもない。このため、海洋や海岸について工学的な立場からの研究が毎年多く行われてきている。しかし、その研究の多くは基礎的研究か、あるいは「モノ」を合理的に造るにはどうしたら良いか、という研究に主体がある。基礎研究は現実の問題の解決とは無関係であるし、また後者の研究は、「モノ」が溢れかえるほどできた時代に多くの成果を期待できそうにもない。今求められているのは、いかに合理的に設計できるかではなく、「そもそもこのままモノ造りを進めていっていいの?」という市民の素朴な質問に答えることではないか。新しい視点からの研究が必要なゆえんである。

縦割りの非難は容易。しかしその打破はどうしたらいいか?

海岸線の管理は海岸法に基づいて、運輸省、建設省、農水省(構造改善局)、水産庁の4省庁によって行われている。具体的には施設を共同の基準に基づいて作り、海岸付近での問題の解決に当たっては協議して進めることになっている。一方、海岸線のごく近傍にある保安林は林野庁の所管であり、これは海岸法の外の世界である。

こうした状況下で、わが国の海岸で起きてきた侵食問題はそのほとんどが人為的影響によって起こって来ている(※1)。したがってわが国にあっては、砂浜の消失現象は「浸食」ではなく「侵食」と記すべきである。例えば、海岸線に沿った卓越した砂の流れ(沿岸漂砂)を防波堤のような施設によって断ち切れば、その施設の下手側では砂がなくなり、侵食が起こる。また沖合に長大な防波堤を延ばせば波の場が変わって波の静かな場所へと沿岸から砂が集まり、周辺海岸では侵食が進む。こうした現象は自然現象としてごく当たり前である。問題は、海岸線付近の管理が別々の機関によって行われているために、全体的視野に欠け、局所的対応となって根本的な対応がとれず、やたらに人工構造物が並ぶという状況になることである。これが構造的問題としてあり、それは科学の進歩とはほとんど無縁である。わが国のどこでも侵食が激しいということが、このことを説明している。

それではどうしたらよいか? 海岸線で問題が起きた場合、侵食の原因はかなり明瞭に特定される。したがって民事訴訟であれば原因者と被害者が明確になって裁判で争えば損害賠償を行うことになる。しかし海岸線はほとんど全部が国有地であるから、国が国を訴えることはできず、また種々の機関はどれも同一の立場であり、いずれかがリーダーシップを発揮する立場にはない。かくして真なる意味の調整は非常に難しい。誰も自分の所属機関の正当性を主張するからである。その結果、全体としてどうしたらよいかという議論は忘れ去られ、局所的対応に追われていく。

このような問題の解決に当たっては、問題の所在を多くの市民に明らかにし、一連の行為の利害得失を広く論じ、合理性ある解決方向を求めることが必要である。新海岸法にもそのような主旨が盛り込まれている。すなわち情報開示と合意形成である。しかしここにもまた問題が潜んでいる。住民は税金を納める立場であると同時に、その中には建設事業で「食べている」建設業従事者もあるし、環境NGOもいる。立場によって価値観・意見が異なるのは当然である。総じてわが国では合理性に基づいて判断を下していくという習慣が疎んじられてきたために、「かんかんがくがくの議論はしたけれど」、というパターンに陥ることが危惧される。しかしそうであってもなお、行政関係者や研究者があらゆる機会を通じて市民レベルと話をし、市民の知識レベルを高め、その判断力が高まるようにして、行政担当者と市民が良き緊張関係を有するような道を探ることが必要と考える。

国民からサポートを得るにはどうしたら良いか?

今後、多くの市民の理解がない公共事業は衰退するに違いない。国民の税金で事業が行われている以上、納税者の理解がなければ予算がつかなくなるからである。現在は過渡期にあり、硬直した従来型の公共事業予算が配分されているが、情報公開が進めば、次第に上述の方向で進むと考えられる。そのため、各種公共機関は、それぞれ必死になって自らの行為を広く多くの市民に知ってもらおうとの活動を進めている。その場合には、従来の事業においてなされてきた、いわば「住民の説得」ではなく、「住民の素直な納得」が得られなければならない。海岸での各種事業において最も問題になるのは、行政機関が過去及び現在進めている事業の問題点を素直に認め、それを出発点として将来に進むことができるかどうかである。過去になされたことがすべて正しかったとすれば、将来解決すべき問題点はないことになり、したがって進歩はないと考えられるからである。これについては筆者らの研究グループでは行政と市民の間に立って海や海岸のことについて腹を割って話し、問題の解決を図るための懇話会方式を提案し(※2)、フロントでの激しい議論を展開している。真摯な議論こそが、真なる市民のサポートに繋がると考えるためである。この方式が理想というつもりはないが、多くの人々が様々な方式で海や海岸について語ること、そして議論をすることが必要と考える。

参考文献

※1) 宇多高明(1997):日本の海岸侵食、山海堂、p.442.

※2) 清野聡子・宇多高明・花田一之・五味久昭・石川仁憲・太田慶生(2000):住民合意に基づいた海岸事業の進め方に関する研究―青森県大畑町木野部海岸の例―、環境システム研究、Vol.28.

 

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