Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第610号(2026.10.20発行)

海に眠る遺伝資源を探る
~海洋ゲノム解析技術の最前線~

KEYWORDS 駿河湾/里海/生物多様性
早稲田大学ナノ・ライフ創新研究機構、静岡理工科大学大学院教授、MaOI機構・副研究所長◆峯田克彦、早稲田大学ナノ・ライフ創新研究機構、早稲田大学理工学術院教授◆竹山春子

海には、目に見えない生命の遺伝情報が数多く眠っている。DNAバーコーディング、環境DNA、メタゲノム、シングルセルゲノム解析の進展により、海洋生物の多様性と機能を従来より詳細に捉えられるようになった。本稿では、里山と海がつながる駿河湾を例に、海洋遺伝資源を読み解く技術と、その保全・持続可能な利用に向けた意義を紹介する。
里山から里海へ─駿河湾が育む多様性
一滴の海水の中には、目には見えない無数の生命の情報が漂っている。私たちの暮らしは、森林や河川、そして海へとつながる自然環境から多くの恵みを受けてきた。「里山」や「里海」は、人の営みと自然環境が適切なバランスを保ちながら共存する場であり、生物多様性の保全と持続可能な資源利用を両立させる考え方として注目されている。こうした山・川・海のつながりを考える上で、静岡県の駿河湾は象徴的な海域の一つである。
駿河湾は、最深部が水深2,500mに達する日本一深い湾であり、黒潮の影響を受ける外洋性の環境と沿岸域の環境が近接している。背後にそびえる富士山をはじめとする山地から、湧水や河川を通じて陸域の水や物質が沿岸へ運ばれ、豊かな漁場を支えてきた。沿岸の藻場や河口域から深海域まで、多様な環境が連続して存在し、魚類、無脊椎動物、植物プランクトン、さらには目に見えない微生物まで、さまざまな生物が生息している。このような陸から深海までの大きな環境勾配は、生物が環境に適応する仕組みや、生物群集が季節・水深に応じて変化する過程を調べる上でも貴重である。私たちは、駿河湾を里山と里海の連環を捉えるモデル海域と位置付け、そこに息づく生物の多様性と遺伝情報(海洋遺伝資源)の実態を明らかにする研究を進めている。
DNAから海の生物と機能を読み解く
海洋生物は、それぞれ固有の遺伝情報を持っている。海洋生物に由来する遺伝資源と、そこから得られる情報・機能は、生物多様性の理解に資するだけでなく、新たな産業やイノベーションを支える基盤としても期待されている。遺伝子の中には、環境変動や病気に耐える仕組み、特徴的な酵素や機能性物質をつくり出す能力など、有用な機能につながる情報が含まれている。そのため海洋遺伝資源は、医薬品、酵素、機能性素材などへの応用可能性とともに、取得・利用や利益配分のあり方が国際的に議論される重要な対象となっている。特に、国家管轄権外区域の海洋生物多様性を対象とする国連公海等生物多様性協定(BBNJ協定)が2026年1月に発効し、海洋遺伝資源の利用と利益配分についても、国際的な制度の下で実施に向けた取り組みが始まっている。
しかし、その可能性を生かすには、まず海にどのような生物が存在し、それぞれがどのような能力を持つのかを知らなければならない。海洋には、既存の培養条件では育てることが難しい微生物や、直接観察・採集することが難しい生物が数多く存在する。従来の顕微鏡観察や採集だけで、その全体像を把握することは容易ではなかった。
この課題を大きく変えたのがDNA解析技術である。DNAバーコーディングでは、生物種ごとに違いが現れやすい標準的なDNA領域を解析し、生物を識別する。さらに、海水中に放出されたDNAを調べる環境DNA解析や、多数の生物に由来するバーコード領域を一括して読むメタバーコーディングにより、個体を直接採取しなくても、魚類、甲殻類、プランクトン、微生物などの存在や群集構造を調べられるようになった。これらの技術は、生物多様性のモニタリング、希少種・外来種の検出、水産資源管理などに活用され、里海の変化を継続的に見守る手段となっている。同じ地点で採水と解析を繰り返せば、目視調査だけでは捉えにくい群集の変化を時系列で比較でき、海水温上昇や人間活動の影響を早期に把握する手掛かりにもなる。
DNAバーコーディングが主に明らかにするのは「誰がいるか」である。一方、海水中のDNAをまとめて解析するメタゲノム解析は、群集全体が「どのような遺伝子や機能を持つか」を調べる方法である。例えるなら、メタゲノム解析は図書館の蔵書をまとめて読み解く作業に近い。これに対し、シングルセルゲノム解析は、その図書館から1冊を選び出して読むような技術であり、1個の微生物細胞からゲノム情報を取得することで、希少な微生物や未培養微生物が持つ機能を、その担い手と結びつけて理解できる。
これらの技術は補完的な関係にある。DNAバーコーディングや環境DNA解析が「誰がいるか」を、メタゲノム解析が「どのような機能があるか」を、分離株や個体のゲノム解析、シングルセルゲノム解析が「その機能を誰が担うか」を明らかにする。実際、私たちが駿河湾で進めている解析からは、調査地点、水深、季節によって微生物群集の構成が大きく異なる傾向が見えてきた。また、得られた遺伝子の中には機能がまだ分かっていないものも多く、駿河湾には海洋遺伝資源として未知の可能性が眠っていることがうかがえる。
海洋遺伝資源を未来につなぐ
海洋遺伝資源は、生物多様性を理解する基盤であるだけでなく、水産資源の持続的利用、環境変動の把握、新たな医薬品・酵素・機能性物質の探索など、多様な分野への応用が期待される。一方で、価値ある遺伝資源を見いだすことは、その資源を育む生態系を守り、利用による利益を公正に分かち合う責任とも結びついている。探索、データ蓄積、機能検証、社会実装を一方向の開発として進めるのではなく、地域の自然環境や産業、文化との関係を踏まえて循環的に進める視点が欠かせない。
海洋ゲノム解析技術の進歩により、これまで見えなかった海の生命情報が次々と明らかになりつつある。DNAバーコーディング、環境DNA解析、メタゲノム解析、シングルセルゲノム解析を組み合わせることで、里海の生物多様性を把握し、海洋遺伝資源の保全と持続可能な利用へとつなげる道筋が見えてくる(図)。里海が人と自然の共生の場であるように、遺伝資源の解読もまた、海と人との新しい関わり方を形づくる営みである。豊かな里山を背景に持つ駿河湾をモデルとして、目に見えない生命の情報を理解し、将来にわたって守りながら生かしていくことは、海の恵みを未来へ引き継ぐための重要な取り組みとなるだろう。(了)

■図 海洋遺伝資源の解析・探索手法

第610号(2026.10.20発行)のその他の記事

Page Top