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オーシャンニューズレター

第602号(2026.02.20発行)

琉球から東南中国へ、島の考古学の魅力

KEYWORDS 稲作の導入/貝塚/島の生活誌
琉球大学国際地域創造学部教授◆後藤雅彦

琉球列島の南には台湾、その対岸の東南中国沿海地域にも多くの島々が存在する。これらの地域は、貝塚の継続期間が長く、稲作の導入と定着には地域によって時間差が認められる。「弥生時代の琉球列島はなぜ稲作農耕を受け入れなかったか」という問題に対して持続と再生の両側面を示す「島の生活誌」の中で捉えることが必要である。
琉球から東南中国へ、島の考古学の魅力
琉球列島は、九州島の南約1,200kmの海洋上にあり、先史時代以降、琉球列島の独自性が注目されながら日本本土を中心に周辺地域との交流も想定されている。
琉球列島の南には台湾島および周辺の島々があり、その対岸の福建・広東を中心とする東南中国沿海地域にも多くの島々が存在する。筆者は、琉球列島および台湾、東南中国の先史文化について東アジア南方沿海地域という地域区分を設定し、文化交流の追究だけでなく、沿海・島嶼域としての生活文化の比較研究を進めている(図)。東アジア南方沿海地域の先史文化は貝塚を伴う遺跡が多く、周辺の稲作集約地域に比べて、貝塚の継続期間が長く、周辺地域に比べ“ゆるやかな変化”を先史文化の特徴とする。
日本列島の弥生文化(農耕社会、紀元前8世紀頃から3世紀頃まで)の成立にあたって、長江下流域から中国稲作文化が北周りに拡散した結果と考えられる。この弥生時代に並行する貝塚時代後期の琉球列島(沖縄諸島)では、貝交易を通じて本土弥生文化と接触していたにもかかわらず、稲作は定着せず、本格的な農耕の定着は10世紀以降とされる。
一方、台湾や東南中国では、長江下流域から南下した稲作文化を導入し、定着に進むが、地域によって貝塚形成が継続する。沿岸島嶼を含む東南中国沿海地域の貝塚遺跡の状況は、内陸地域の広東石峡(シーシャー)文化※1の定着した農耕を基盤とする農耕社会と副葬品を含めた遺物組成において大きく異なる。
すなわち、東アジア南方沿海地域の新石器文化は、狩猟採集社会から農耕社会への一系列では捉えられない変遷過程をもち、稲作の導入と定着には地域によって時間差が認められる。そう考えると、琉球列島の先史文化において、稲作農耕社会に接触しながらも農耕が行われなかったとされるが、それは定着しなかっただけで、農耕の導入段階を示すような状況はあったのではないか、という問題を提起することができる。

■図 稲作の拡散と本稿の対象地域

島における稲作の導入と定着
2021~2023年度に、「島の生活誌と東アジア人類史―弥生時代の琉球列島はなぜ稲作農耕を受け入れなかったか」と題した研究を実施した※2。本研究では、地域における環境と生活文化の関係、あるいは島内外の文化交流が凝縮される「島の生活誌」という視点で、島々の生活のありように着目した。貝塚時代後期の沖縄諸島では、九州弥生文化との貝交易が盛んで、遺跡も、発達したリーフに面した海岸砂丘上に立地する事例が多い。そこで、後世に稲作適地となる久米島(写真)について遺跡分布を検討した。リーフの発達する島の西部は、海岸近くに貝塚が多く分布するが、東部は数カ所に過ぎず、遺跡の分布状況が異なる。2023年11月の数日間、東部に位置する銭田貝塚周辺の東側において試掘調査を実施した。現代の攪乱を受けて、残念ながら遺物包含層や貝層は確認できなかった。本研究は終了したが、地表面の観察では貝殻や遺物が採集されていることから、今後のさらなる調査が望まれる。もっとも、定着した状況ではなく導入した痕跡を検証することは、簡単ではないのかもしれない。しかしながら、島という限定された空間を扱うことから、地域内の遺跡の動向を把握しやすいという利点を活かし、異なる遺跡の分布状況を含む島のあらゆる遺跡情報を丹念に積み重ねることによって「島の生活誌」を復元することが求められる。

■写真 久米島。島の西側はリーフが発達し、遺跡が多い。

島の考古学の魅力
本研究によって、琉球列島のより古い稲作の導入の痕跡を検証することはできなかったが、筆者がもともと研究対象としていた東南中国についても、「島の生活誌」という新たな視点をもつことができた。
東南中国沿海地域の珠江三角州において、最近の調査として『中国重要考古発現2018』で報じられている広州茶嶺遺跡は、同時期の貝塚遺跡と異なり、石峡文化との強い文化関係がうかがえる。考古学資料として生活用品である土器から祭祀・儀礼に関わる玉器に及ぶセットとして搬入されている状況を示している。その背景には、ある程度の人間集団の直接的な移動・移住が想定される。それに対し、珠江三角州の島々にはこうした規模の移動・移住が行われていなかった可能性が高い。珠海高欗島宝鏡湾(バオワンジン)遺跡※3は、石峡文化の影響と考えられる要素もあるが、稲作の導入の痕跡よりも、漁網錘に用いられた多量の石錘や石碇(錨)が出土し、漁撈活動が活発であったという「島の生活誌」を示す。
また、前述したように琉球列島を含む東アジア南方沿海地域において、ゆるやかな変化を示す先史社会が長く持続する。一方、島における居住の変遷の中には断続的な推移も見受けられるが、周辺地域との交流を契機に再生(島での居住)が認められる場合がある。ここで、東南中国の海壇島(ハイタントウ)(別名:平潭島(ピンタントウ))に注目すると、遺跡(貝塚)は新石器時代後期に先行する時代から出現するが、内陸地域において農耕社会である石峡文化が成立する新石器時代後期になると減少する。しかし、紀元前2000年以降、海壇島が東南中国の沿海ルート上に組み込まれると再び増加する。遺跡立地の傾向も多様化し、より内陸の海抜高度の高い遺跡がみられるようになる。島における遺跡の立地は、生業活動など、当時の生活と深く関わることから、遺跡立地の多様化は、島における「再生」、すなわち新たな交流を契機としながら島での新しい生活を切り開こうとする人々の動きが背景にあると考えられる。
話を琉球列島に戻すと、久米島における貝塚時代後期における海岸砂丘上の遺跡に対して、マイナーな事例であるが、より内陸にも遺跡を確認することができる。こうした遺跡の動向も島での新しい生活を試みた人々の動きがその背景にあったのではないだろうか。「弥生時代の琉球列島はなぜ稲作農耕を受け入れなかったか」について、持続と再生の両側面を示す「島の生活誌」の中で考察することが求められる。
筆者の研究の視野として、東アジア南方沿海地域の中で琉球から台湾、東南中国の島々を行ったり来たりしている最中である。個性あふれる島々を行き来することができることが島の考古学の魅力といえよう。(了)
※1 広東省石峡遺跡を標識とする中国新石器時代後期文化(紀元前3000~2000年)の一つ。稲作農耕を基盤とし、玉器などを副葬する墓地が形成されている。
※2 2021年度サントリー文化財団研究助成「学問の未来を拓く」採択プログラム
※3 宝鏡湾遺跡は、石峡文化の影響と考えられる遺物が出土する段階から、紀元前2000年以降の文化内容をもつ。農耕社会というよりも遺跡からは大量の石錘や石碇(錨)が出土し、漁労活動が活発な島の生活誌を示す遺跡として注目される。

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