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オーシャンニューズレター

第578号(2024.09.05発行)

「海水浴」の起源と歴史

KEYWORDS 潮湯治/海水浴/病気治療・療養
九州看護福祉大学看護福祉学部鍼灸スポーツ学科教授、(公財)日本ライフセービング協会教育本部地域教育推進委員◆國木孝治

「海水浴」の歴史を紐解くと、「海水浴」は病気治療や療養を目的として、江戸時代後期から明治期にかけて西欧から伝播、導入されたことが所説より導き出される。
本稿では、西欧の医学的認識を介して伝播された「海水浴」や来日外国人によって行われた「海水浴」の歴史について論じたい。
「海水浴」は西欧から伝播した外来文化?
今日、「海水浴」と言えばわが国における海洋性レジャー活動の中でとくに多くの人が参加している活動ですが、実は、明治初頭期頃までは日本ではほとんど誰も行っていなかったというのが通説です。もちろん、それまでにも海浜周辺に住まう人々が暑気払いを目的に海に浸かり泳ぐといった水浴行為はあったでしょうし、潮湯治といった海水に直接身を浸したり、海水を持ち帰り冷水浴や温浴を行っている地域もありました。しかし、「海水浴」という言葉が使用され始めるのは、江戸時代後期以降なのです。
「潮湯治」という偏在文化
江戸時代後期以前に、日本各地にみられた「海水浴」に類似する行為について調べてみると、平安時代後期に詠じられた和歌にみられる〈潮浴み〉や〈塩湯浴み〉、『吾妻鏡』にみられる鎌倉時代初期の〈塩浴〉、『和泉名所図会』にみられる安土桃山時代の〈塩風呂〉、江戸時代初期の『徳川實紀』にみられる〈塩湯あみ〉、『尾藩世記』にみられる〈海潮浴〉〈潮水浴〉等の記録が挙げられます。しかし、何れもある特定される日において、ある特定される者が行っているに過ぎず、長期にわたって不特定多数者が受容しているような地域は、管見の限り大野(現愛知県常滑市)の〈潮湯治〉だけだったと思われます。そして大野の〈潮湯治〉を最も知らしめたのは、1844(天保15)年に刊行された地誌『尾張名所図会』ではないでしょうか。
この時代の大野の特徴としては、病気治癒を目的とした行為に加えて、今日の温泉入浴に近い形態として受容されていました。そしてさらに江戸時代後期頃になると、大野は〈大野の潮湯治(場)〉として広く諸方に知れ渡り、名所化し、観光目的としても受容されていました。
『尾張名所図会』にみられる大野の潮湯治。1844(天保15)年

『尾張名所図会』にみられる大野の潮湯治。1844(天保15)年

病気治療を目的とした「海水浴」法の伝播
西欧における「海水浴」は、18世紀中葉頃にイギリス医学界で冷水浴法の効用が再認識され、温泉療法にかわる新法として19世紀にかけて西欧の海岸線に普及していきました(アラン・コルバン著『浜辺の誕生』1992、藤原書店)。シーボルトは長崎出島のオランダ商館医として1823〜28年に来日し、鳴滝塾を開設して日本各地から集まってきた医者や学者らに対して医学教育を行っています。そして彼が講義した内容は門下生らによって筆録されています。この講義ノートの中に、病気治療の処方として直接海水に身を浸す「海水浴」の処方名がみられます。つまり、「海水浴」とは病気治療を目的としているものでした。
このほかにも、西洋医学書の翻訳書(林洞海訳書『窊篤児薬性論』や緒方洪庵訳書『扶氏経験遺訓』等)の中にも、病気治療を目的とした「海水浴」や「海水冷浴」の処方名がみられます。
いずれも、オランダ語を日本語に訳す際の“zee water bad”、つまり、zeeは海、waterは水、badは浴み・浴場の意で、「海水浴」と直訳されています。そしてこれら書に記された「海水浴」は、日本国内で「海水浴」という言葉が認知されるきっかけの1つになったと考えられます。
シーボルト帰国以後、長崎海軍伝習所の第二次派遣団としてポンぺが1857〜62年に来日し、長崎医学伝習所(後の長崎大学医学部)において医学教育を行っています。彼が診察した日本人に対する診断と処方を記した書簡と、彼のもとで学んでいた松本良順(後の松本順:明治維新後の初代陸軍軍医総監)が訳した書が残されています。注目されることとしては、「海水浴」とは直接波のある海中に身を浸し浴する方法であったことが挙げられます。
西欧の「海水浴」の普及と来日外国人による「海水浴」
西欧における「海水浴」が、バルト海、北海、英仏海峡を望む大陸の海岸伝いに浸透していくのは、18世紀後半から19世紀にかけて。さらに19世紀初頭には、海岸線を有するヨーロッパ各地で海水浴場が続々と開設されており、19世紀中葉にかけて海岸保養の大衆化が広まり始めていました。つまり、病気治療や療養の1法であった「海水浴」は、次第に広く市民の間でも行われるようになり、今日のようなリフレッシュ等を目的とした余暇活動としても価値観が変容し受容されるようになっていたと考えられます。そして、この時代の日本は江戸時代中期から明治時代初期にあたり、鎖国の時代からの開国、欧米の文化が流入してくる時代にあたります。
お雇い(御雇)外国人は、江戸時代後期から明治時代にかけて、わが国の軍事力強化や、欧米の先進技術、学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、江戸幕府や諸藩、明治維新以降は明治政府や府県によって官庁や学校に招聘されています。
先項において、「海水浴」の概念は、西欧の医学的認識を介することによってわが国に持ち込まれたことを記しましたが、他方で、幕末期から明治時代にかけて来日したお雇い外国人らによって、海水に浴したり、海で泳いだりする行為が行われました。彼らが行っていた「海水浴」とは、病気治療や療養を目的とした「海水浴」もあれば、リフレッシュを目的とした「海水浴」もありました。「海水浴」を体験したことのない日本人には、彼らが行っていた「海水浴」が全く新しい価値観として目に映ったのではないでしょうか。
明治時代初期の海水浴論
わが国における、明治時代に発表または刊行された「海水浴」と「海水浴場」に関する論説や解説書、海水浴場案内等の数をまとめてみると、実に17編にのぼります(筆者調べ)。初出は、緒方惟準・村瀬譲の連名で1874(明治7)年の『公文通誌』に寄稿された『海水浴』、および翌年の『海水浴説』で、以後の日本人医学者らによって著される論説や解説書の先覚であったと思われます。そして、1881(明治14)年の内務省衛生局雑誌第34号に掲載された『海水浴説』の全国流布は、「海水浴」と「海水浴場」の普及に拍車をかけたものと考えています。
なお、大正期以降は「海水浴」に関する論説や解説書は殆ど公刊されていません。つまり、大正期以降は「海水浴」が国民に広く認知されていたのではないかと考えられます。
「海水浴」史から海岸線の環境を考える
現代の「海水浴」は多用な価値観をもって人々に受容されています。さらには多種マリンレジャー・スポーツ等によって、行動範囲は海岸線のみならず広く海洋にわたっています。かく言う筆者もこれら受容者の1人ですが、沿岸域には多くのプラスチック類や漁ろう具等、難分解性の漂流物が浮遊し、海岸線に漂着しているのを目の当たりにしています。「海水浴」は、素晴らしい自然環境があり、全国に普及していきました。歴史を見つめてみることで、残していきたい「海水浴」の未来、ひいては地球規模での海洋環境を考えることにも繋がっていくのではないでしょうか。(了)
●参考 : 畔柳昭雄著「海浜文化としての海水浴一海洋性レクリエーション考」本誌第253号(2011.02.20発行)

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