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オーシャンニュースレター

第253号(2011.02.20発行)

第253号(2011.02.20 発行)

海浜文化としての海水浴一海洋性レクリエーション考

[KEYWORDS] 海国思想/ウミミズユアミ/潮湯治
日本大学理工学部海洋建築工学科親水工学研究室 教授◆畔柳(くろやなぎ)昭雄

海水浴の歴史的な変遷を辿るとともに現在の海水浴の状況を捉え、ウミミズユアミからカイスイヨクに変貌した経緯を踏まえて海水浴の付加価値力について述べる。

海水浴の位置づけ


■図1:海水浴参加人口の推移
昭和62年から平成21年までの海水浴参加人口の推移。数値は各期間の平均値。余暇活動の多様化により海水浴参加人口の減少傾向が見られる。
(資料:1988年~2010年「レジャー白書」より)

海水浴は明治18年頃まで海に浸かり身体に波を当てる一種の信仰的色彩を帯びた民間療法であった。その後、海水浴は余暇的色彩を帯びつつ広く知れわたるようになるが、海水浴場では、男女間の椿事が危惧され混浴は禁じられていた。もちろん女性の水着も今日とは違って肌の露出がほとんどない全身を包み込む装いであった。保守的風潮は明治中期以降になると一転し、海水浴は全国的に普及する兆しを見せ、各海水浴場では海水浴客の増加を目指して、海浜で演劇ショーを催したり、海上に桟橋を設置したり、空中には飛行船や飛行艇を飛び交わせるなど、あらゆる娯楽的要素を詰め込み、創意工夫を凝らした。大正11年11月の「各地方ニ於ケル登山ニ適スル山岳並海水浴場、水泳場ニ関スル概況」(内務省衛生局編)には、整理された全国の海水浴場は216カ所とあり、その中には、当時、兵庫県に鐘紡海水浴場と呼ばれる鐘淵紡績会社が自社の女子工員のために開設した海水浴場があった。また、会員制として神戸市にリガッターアンドアスレチック倶楽部水泳場があり、神戸在住の外国人が運営し(日本人20名程雇用)、外国人会員数320名であった。会員制海水浴場は他には長崎にあった。このように海水浴は大衆的支持を受けて一挙に花開いた。その一方で「海国思想の涵養」という崇高な理念を掲げて海水浴の普及に地道に取り組んだ会社もある。
こうした幾多の歴史的事実は海水浴があまりにも身近な余暇や行楽と捉えられがちなためか、いつの間にか忘却の彼方へ追いやられてしまった。しかしながら、海水浴の人気は国民の間にしっかりと根付き、長らくの間、余暇活動の人気ナンバーワンの座を占めてきた。ただ、時代が平成に入るころから次第に海水浴の人気に陰りが見えはじめる。財団法人日本生産性本部では、毎年余暇活動の「参加人口」を推計し、「レジャー白書」に上位20位を公表しているが、2010年度版に「海水浴」の文字は見当たらない。海水浴が上位20位以内にあったのは99年度版の18位が最後で、このとき参加人口は2,490万人。翌年以降その順位が盛り返すことはなく今日に至っている。かつての国民的な人気は完全に衰えてしまったが、女性の十代のレジャー参加希望率を見ると、かろうじて4位に海水浴は位置づけられており、若い女性からは支持があるようだ。

ウミミズユアミからカイスイヨクへ


■図2:尾張名所図会「大野の海水浴(汐湯治)」(医者であった後藤新平の脳裏に焼きついて離れなかった海水浴の風景)


■図3:海水浴場発祥の地記念碑(記念碑の背後は防波堤のため、この風景から当時を回想することは不可能。歴史的価値について再考が必要と思われる)

平安時代のころから海に入り海水に浸かり浴びる行為を「海水浴」と呼んでいた。この行為は禊ぎや民間療法として広く巷に伝承されていた。そのためか、遥か昔から海水浴は人びとに親しまれていたとされ、因幡の白兎の話が持ち出されることもある。しかし、その実態や意味する行為は今日とは大きく異なったものであった。とりわけ海水浴の三文字は「ウミミズユアミ」と読まれていた。海に入り海水を浴びる所以である。ただ、この呼び方は別称であり、通常は海に入り潮を浴びることから「ゆあみ」と言われたり、温泉の湯治と区別するために潮湯治などと呼ばれた。
この潮湯治の効果を認めながらも旧い因習から脱皮して、医学的知見に基づく海水浴に衣替えすることを奨励し、その改善に尽力したのが医者の後藤新平らである。彼らは医者の立場から貧しい国民の暮らしぶりに接することで、心身の健全な発育や薬に頼らない健康の維持向上を願い、海に浸かり、海水を浴び、海気を吸う近代的な海水浴の普及に情熱を傾けていた。そして、大磯(神奈川県)や二見浦(三重県)、大野(愛知県)の地に海水浴場を開設する一方、「海水浴説」や「海水効用論」などの啓発書も出版した。その効果が広く宣伝されることで医学的な知見や衛生思想が次第に反映され、近代海水浴は全国的に普及するようになり、「ウミミズユアミ」の呼称は次第に「カイスイヨク」と呼ばれるようになり、今日に至っている。
余談だが後藤新平は、後に外務大臣や満鉄総裁などを歴任した人物として名を馳せているが、海水浴の普及にも貢献していたことは長らく忘れ去られてきていた。
同じ時期、わが国独自の遊泳文化として継承されてきた各種泳法の水練場が隅田川に集まっていたが、水質の悪化に伴い海浜に移設されることになった。そのため、海浜にはかたや水しぶきをあげて泳ぐ者たち、片や静かに海気を吸い療養する者たち、両者が同じ海浜に居合わせることで次第に渾然一体化してゆき、これがきっかけとなり日本特有の海水浴が誕生することになった。以降、日本の海水浴は泳ぐことを含めた余暇的な行為に変貌した。

これからの海浜文化の創造

海浜を舞台にして行われてきた海水浴は、そのことだけを取り上げると些細なことであり、医療行為や夏場の余暇的な過ごし方のひとつに過ぎないと見る向きもあるが、見方を少し変えると海水浴をきっかけにして、各地でまちづくりや別荘地開発、サナトリウムのある保養地開発などが進められてきた。ちなみに、このとき作り上げられた地域のイメージを現在まで営々と継承してきている代表格が湘南海岸であり、先進的でおしゃれな場所の雰囲気は明治時代にその礎が形成されたのである。加えて、海水浴は女性の水着の発展を促すとともに、わが国固有の海の家の形態を各地の地域性を加味することで発展させたことも忘れるわけにはいかない。
このように医療や風俗に対しても大きな影響を及ぼし、社会事業や社会政策的な意味も海水浴は秘めていた。そこで、海水浴を単なる余暇活動のひとつとして片付けてしまうのではなく、海水浴の持つ付加価値力を見つめ直し、海浜文化を醸成したものとして捉え直すと、若干海の見方が変わってくる。例えば、四季を通じて海浜の自然に接することを念頭に置けば、春から初夏にかけては海気を浴びる場所となり、夏場は海水浴を楽しむ場となり、初秋は自然の移ろいを楽しむ場となる。従来までの考え方を少し柔軟な思考にすることで、自然を浴したいとする都会人に対して、海浜の新たな利用を促すことになり、海や海浜の活用範囲を広げることにつながる。かつて後藤新平はじめ多くの先人たちが取り組んだ時代の海水浴の姿を再考することで、新しい海の姿や海浜利用のあり方を見出すことができるものと思われる。(了)

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