Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第556号(2023.10.05発行)

海洋酸性化とその対策

KEYWORDS 沿岸酸性化/複合影響/適応策
東京大学大気海洋研究所教授◆藤井賢彦

人間活動に伴って大量に排出されたCO₂が海水に溶け込むことで生じる海洋酸性化は日本ではまだあまり知られていないが、世界中の海で確実に進行している。
まずは海洋酸性化が海洋生物や人間社会にどのような影響を及ぼし、将来どうなるかを正しく知る必要がある。
その上で、今後考えられる必要な対策について紹介する。
海洋酸性化とその影響
人間活動によって排出されたCO₂の一部は海洋に吸収される。CO₂は海水に溶けると水素イオンと炭酸水素イオンに乖離する。この過程で生じる水素イオンの大部分は海水の緩衝作用により炭酸イオン等と反応して消費されるが、水素イオンの一部は残る。これが元々弱アルカリ性である海水のpHの低下を引き起こす。現にpHの低下が世界中の海で報告されている。この現象を海洋酸性化と呼ぶ。海洋酸性化が進行すると、海水中の炭酸イオンが上記の緩衝作用で消費される。炭酸イオンは炭酸カルシウムを生成する際に必要であり、海水中の炭酸イオンが減ると炭酸カルシウムの殻や骨格を作りにくくなる。すなわち、炭酸カルシウムの殻や骨格を持つサンゴ、貝類、エビ・カニ類等が海洋酸性化の影響を受ける可能性が20年程前から指摘されていた。実際に米国西海岸沿岸では、マガキやアメリカイチョウガニの幼生が海洋酸性化により生育に深刻な影響を受けた事例が報告されている。
貝類の初期発生段階や幼生期における死亡率や奇形率は、1日のうち最もCO₂濃度が高い(pHが低い)条件に左右されることを、最近の飼育実験の結果が示唆している。すなわち、pHの日周変動幅が大きい沿岸では、海洋酸性化が海洋生物にとって危険水準に達する時期がより早期に現れる可能性がある。さらに、沿岸には河川から淡水や有機物が流入している。淡水が流入すると海水のpH緩衝作用が弱まる。また、流入した有機物が沿岸で分解すると、CO₂が発生しpHが低下する。大雨直後の河川からの淡水や有機物の流入に起因するとみられるpHの短期的な低下が近年、日本沿岸の幾つかの場所で報告されている。このような局所的なpHの低下は、人為起源CO₂の大量排出が引き起こす海洋酸性化による世界的なpHの低下と区別する目的で「沿岸酸性化」と称されることもある。今後、地球温暖化の進行により大雨のような極端現象の頻度や強度は増大すると懸念されており、従って河川からの淡水や有機物の流入も増大し、沿岸酸性化も加速する可能性がある。沿岸では海洋酸性化と沿岸酸性化が重なり合っており、海洋酸性化はさらに速いペースで進行することが懸念される。
一方、日本近海では、CO₂噴出海域※1のようなごく特殊な海域を除けば、海洋生物が海洋酸性化影響を受けた事例は今のところまだ見つかっていない。しかし、それは将来にわたっても海洋酸性化の影響が出ないことを保証するものではない。数値シミュレーションによる将来予測の結果は、日本沿岸でもサンゴ礁、ホタテガイやエゾバフンウニ、マガキ等で今世紀末までに深刻な海洋酸性化影響が顕れる可能性を示唆している(図)。海洋酸性化影響について、現状を正確に評価した上で将来を予測し、その結果を踏まえ、どのような対策をいつまでに講じるかを検討する必要がある。
対策である緩和策と適応策
海洋酸性化対策は主に2つに分類される。緩和策と適応策である。緩和策は起こっている問題の原因を取り除く根治療法、適応策は起こっている影響を回避するいわば対症療法である。海洋酸性化の場合、緩和策の第一は人為起源CO₂の削減に他ならない。これまでの将来予測結果の多くは、人為起源CO₂の排出をパリ協定基準で大幅削減できれば、将来の海洋酸性化影響も大幅に改善できることを示唆している(図)。CO₂の削減は世界のどこで行っても効果があり、また世界中で行うべき対策である。そのためには市民一人ひとりの努力も重要だが、エネルギー転換等、排出量の大きな部門の脱炭素化が鍵を握る。CO₂は現在の地球温暖化を引き起こしている主たる温室効果ガスなので、海洋酸性化の緩和策は、長期的な地球温暖化、そして地球温暖化に伴って頻度と強度が増大すると懸念される大雨や暴風雨、海洋熱波等の極端現象の影響を軽減することにも役立つ。一方、地球温暖化に対してはCO₂以外の温室効果ガスの排出抑制や日射量の人為的な抑制が緩和策として有効に働く可能性もあるが、海洋酸性化に対しては、人為起源CO₂の排出を削減する以外に広範囲に適用できる緩和策を今のところは見いだせていない点で異なる。
一方、緩和策を最大限に講じたとしても、海洋酸性化や地球温暖化は今後何十年も続く可能性がある。そのため、向こう数十年のうちに懸念される海洋酸性化や地球温暖化の影響を回避するために、世界中で緩和策を十分に講じつつ、同時に適応策も局所的かつ順応的に講じていく必要がある。とりわけ、海洋酸性化の影響を直接受けることが懸念される貝類養殖をはじめとする水産業や、サンゴ礁に依存した観光業等の地場産業を中心に、海洋生物資源の変化に応じた適応策を順応的に講じていく必要がある。特に、世界の漁業生産量に占める養殖生産量の割合が増加の一途を辿っている現状に鑑みると、今後は陸上養殖を含めた養殖技術のさらなる改良、養殖対象種や養殖場所の変更、海洋酸性化に対する感受性が高い幼生期には人工的に用意した低CO₂(高pH)環境に一時避難させて飼育、といった適応策も視野に入れていく必要があるだろう。
緩和策と適応策は密接に関連し合っており、人為起源CO₂の排出抑制が遅れれば遅れるほど、影響回避に求められる適応策の敷居も高くなることを肝に銘じておく必要がある。逆に、今後の人為起源CO₂の排出をより早期に大幅削減できれば、海洋酸性化影響が海洋生物にとって危険な水準に達する時期を遅らせることができる。海洋酸性化の緩和策と適応策の両方に通じる対策は率先して実施していくと良いと思われる。さらに、沿岸地域が抱える海洋酸性化や地球温暖化以外の諸問題、例えば生物多様性の維持や地域経済の活性化といった課題の解決にもつながる対策も優先的に実施していくべきだろう。例えば、河口域や貝類養殖場の近くに藻場や干潟を造成し、藻場・干潟内で生物により有機物を吸収・蓄積することは沿岸での有機物の分解を軽減する※2とともに、炭素固定や生態系のゆりかごといった多面的機能の向上にもつながる可能性があり、社会的にも比較的費用対効果が高い対策と考えられる。(了)
■図 北海道日本海側沿岸の観測点における、水温(地球温暖化の指標:左)と、炭酸カルシウムの一形態であるアラゴナイトの溶けやすさを表すアラゴナイト飽和度(海洋酸性化の指標:右)の、1月から12月までの現在再現と将来予測のモデル結果。
■図 北海道日本海側沿岸の観測点における、水温(地球温暖化の指標:左)と、炭酸カルシウムの一形態であるアラゴナイトの溶けやすさを表すアラゴナイト飽和度(海洋酸性化の指標:右)の、1月から12月までの現在再現と将来予測のモデル結果。現状のCO₂排出を続けると、今世紀末までに北海道を代表する海の幸は地球温暖化と海洋酸性化の深刻な複合影響を受けること、そしてその影響は人為起源CO₂を大幅に削減することで軽減できることを示唆している。Fujii et al.(2021, Front. Mar. Sci.)
※1 和田茂樹著「自然の海洋酸性化海域を利用した海洋生態系の将来予測」本誌第545号(2023.04.20発行)参照 https://www.spf.org/opri/newsletter/545_3.html
※2 小埜恒夫著「わが国沿岸域の酸性化の現状評価と適応策」本誌第532号(2022.10.5発行)参照 https://www.spf.org/opri/newsletter/532_1.html

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