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オーシャンニューズレター

第234号(2010.05.05発行)

第234号(2010.05.05 発行)

読者からの投稿:瀬戸内水運と塩飽文化

[KEYWORDS]塩飽諸島/咸臨丸/宇高航路
NPO法人地域の教育と文化を考え・行動する会 理事長◆大林成行

宇野と高松を結ぶ航路が開設されて100年になる今年、「瀬戸内の物流と塩飽文化」を総合テーマの下に三会場で公開討論会が実施される。わが国の経済や文化に大きな影響を与え続けてきた瀬戸内の物流システムや水軍の操船技術、それらを支えてきた先人達の存在について、改めて考え直すいい機会になると考える。

はじめに

瀬戸内海域が古代から中世、近代に至るまで海の新幹線ルートとして、人の往来と物の輸送、外国貿易の中継拠点、時代を越えた権力者達の抗争の舞台となってきたことは良く知られている。それを支えてきたのはわが国独特の倭船の存在であり、海賊または水軍と称された人々が果たしてきた役割を抜きには語れない。瀬戸内の物流システムや操船技術、それらを支えてきた人達の存在が長い時代にわたって、時代を彩り、わが国の経済や文化に大きな影響を与え続けてきたと言っても過言ではない。こうした先人たちの業績が現代に生きる私たちの生活の中から失われつつあると危惧するものも多い。

瀬戸内と2010年


■塩飽(しわく)諸島と宇高航路

2010年は宇野と高松を結ぶ航路が開設されて100年になる。宇高航路が四国と本州の海の架け橋として大きな足跡を残してきたことは言うまでもない。そして、瀬戸内の海で生まれ育った35人の水夫(塩飽(しわく)7島から選抜された水主達)が、卓越した操船技術の故に徳川幕府に雇用され、咸臨丸を操船して初めて米国サンフランシスコに渡り、わが国の近代化への扉を開けてから150年になる記念すべき年でもある。
2010年2月、アメリカからMatsuno Patrick女史が坂出市に来られ、咸臨丸の米国訪問150年記念行事をするに際して資料の提供を依頼された。持参されたスケジュールには年間を通じて咸臨丸を記念した沢山の行事が予定されていることを知ることになる。この事実に触発されるように、何回もの会合を重ねて、咸臨丸の操船に多くの水夫を出した塩飽諸島と塩飽文化を中心にした公開討論会※1が郷土史研究家の参加の下に企画された。公開討論会は「瀬戸内の物流と塩飽文化」を総合テーマの下に本島(ほんじま)(塩飽水軍とそれを利用した人々、平成22年5月29日)、佐柳島(さなぎじま)(咸臨丸とそれを支えた人達、平成22年5月30日)、粟島(瀬戸内の海の文化を支えた人々、平成22年6月5日)の3つの会場で実施されることになり、準備が進められている。

本島は塩飽28島、人名(にんみょう)※2の島の中心であることはよく知られている。わが国の歴史の中でも珍しい、大名や小名と同じように古くからの制度に因んで付けられた人名制が長く続くことによって独自の文化を形成し、物流の面からも中央集権国家に影響を及ぼし続けてきたことは大変興味深いことであると同時に未だに解明されていない点も数多くある。公開討論会では、こうした塩飽の文化や制度が取り上げられることになっている。
佐柳島は塩飽諸島の一つであり、咸臨丸を操船した富蔵と高次の故郷でもある。富蔵は不幸にもサンフランシスコに到着の後、病に倒れ異国の地に眠ることになったが、高次は無事に帰国した後、坂本龍馬に心酔し、坂本龍馬亡き後は海援隊の隊長として日本が近代国家として成長していく姿を見届けている。佐柳島公開討論会は、こうした先人達の偉業を称え、後世に語り継いでいくための一里塚として企画されている。
塩飽諸島の西、西讃海域の中心に位置する粟島は、古くから燧灘(ひうちなだ)を介して伊予、備前、備中と繋がりを持ち、瀬戸内を航行する船の寄港地として、また水主の島として栄えてきた。特に、江戸時代には北前船の拠点として瀬戸内水運に大きな影響を及ぼしている。近代に入ると、わが国最初の海員養成所が設置され、近代海運界に多くの人材を輩出してきた。瀬戸内水運は物資の輸送だけでなく様々な文化の交流にも寄与してきたことは言うまでもない。現在も瀬戸内の島々に残されている独自の文化は、長年にわたって先人が脈々と伝えてきたものであり、それらの文化を後世に残し伝えてゆくことは現在に生きる私たちの使命でもある。なお、この企画は宇高航路100周年記念行事「船の祭典2010」※3の一環として開催される。折しも、瀬戸内の島を対象に国際的な規模で進められている「瀬戸内国際芸術祭2010」も幕を開け、「海のイベント」として、2010年の瀬戸内の夏は島も海も文字通り暑くなる。

むすび

わが国物流の原点とも言える瀬戸内を舞台にした物や人の移動、倭船の建造と操船の技術、それを支えた塩飽の水主達、塩飽文化が日本文化に与えた影響などについて改めて考えて見ることは大変意義がある。極端な高齢化と過疎化が進む瀬戸内の島々を振り返り、地域文化を再認識する上からも是非とも成功させてほしいものである。(了)

※1 公開討論会は以下の3会場で実施。本島会場「塩飽水軍とそれを利用した人達」(2010年5月29日(土)13:30~16:00 塩飽勤番所(丸亀市本島))、佐柳島会場「咸臨丸とそれを支えた人達」(2010年5月30日(日)13:30~16:00 佐柳島公民館(多度津町))、粟島会場「瀬戸内の海の文化を支えた人々」(2010年6月5日(土)13:30~16:00 旧粟島海員養成所講義棟(三豊市))
※2 人名制度=「名」とは領地を意味し、大名は一万石以上の領有者を指すのだが、人名制は1,250石を650人の船方に分配し、自治権と周辺海域の制海権が与えられ、年寄職の中で3名が選ばれ交替で町外れの「勤番所」で政治を行い、塩飽全島を管理したもので、秀吉の時代から明治まで続いた。所領を与えられた代りに軍役として幕府の御用船に乗込み警護した。
※3 船の祭典2010=2010年5月22日~6月13日まで開催。(主催:香川県観光協会)

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