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オーシャンニューズレター

第227号(2010.01.20発行)

第227号(2010.01.20 発行)

戦艦ヴィクトリーの物語

[KEYWORDS] 戦艦ヴィクトリー/木造艦船/ネルソン
東京大学大学院総合文化研究科教授◆山本史郎

1805年、戦艦ヴィクトリーを旗艦とするイギリス艦隊は、トラファルガー沖の海戦で、フランス・スペイン連合艦隊を打ち破り、歴史的な勝利を収めた。
戦艦ヴィクトリーは幾度か改修を受け、いまもイギリスのポーツマス港の乾ドックに係留されており、静かに歴史の流れを見守っている。

戦艦ヴィクトリーの歴史

ポーツマス港に記念艦として展示される戦艦ヴィクトリー
ポーツマス港に記念艦として展示される戦艦ヴィクトリー

明治38年5月27日早朝、連合艦隊の旗艦であった戦艦三笠にZ旗が高々と揚がった。「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」。壱岐沖にようやく姿を現したロシア・バルチック艦隊に向かいながら、東郷司令長官が揚げさせたものだ。日露戦争のクライマックスである。
これに先立つことちょうど100年、西暦1805年10月21日のこと、スペイン・トラファルガー岬の沖合で、英国艦隊と、フランス・スペイン合同艦隊との間に決戦の火ぶたが切られた。そのとき、司令官ネルソンの座乗する旗艦ヴィクトリーの艦上に、当時としては異例の、激励のための信号旗がへんぽんと翻った。「英国ハ各員己ガ義務ヲ果タサンコトヲ期待ス」という意味であった。
日本海軍は草創期よりイギリス海軍を範としていた。歴史的な海戦を前にして、東郷は当然のことのように自らをネルソンに擬したであろう。
日本海海戦の日、東郷は艦橋に下りてほしいという部下の進言に応じず、あえて敵の砲弾に身をさらした。戦闘中は展望台に立ったまま、微動だにしなかったという。そんな東郷の胸中には、ちょうど100年前、国の盛衰をかけて海戦を戦い、雄々しく生涯をおえたネルソンの姿がありありと浮かんでいたはずだ。
ネルソンは次々と飛んでくる砲弾、雨のように降り注いでくる弾丸をものともせず、無蓋の甲板上を歩きまわりながら戦闘指揮を取っていた。だが、やがて敵の狙撃兵が放った兇弾によって脊柱を砕かれ、倒れ伏す。そして数時間後、「神に感謝しよう。わたしは義務を果たした」と呟きながら息をひきとったのだった。
このような劇的な歴史の大舞台となった戦艦ヴィクトリーが、イギリスのポーツマス港の乾ドックに係留されている。しかもいまだに就役艦リストに載っているれっきとした現役艦で、大将旗をかかげている。

100門の砲を擁する、英海軍では異例の大艦

今を去ること250年前の昔、イギリス南部のチャタムにある海軍の造船所で、戦艦の建造が始まった。はじめて竜骨がおかれたのが1759年、そして6年後の1765年に晴れて進水した。名はヴィクトリー。当時のイギリスでは2層の砲甲板に74門の大砲を装備した戦艦が主流であったが、ヴィクトリーは3層の砲甲板に100門の砲を擁する異例の大艦として設計された。排水量は約3,500トンである。
軍艦とはいっても木造で、風をうけて走る。当然のことながら、艦体が巨大化すると運動性が悪くなる。74砲門艦あたりが、破壊力と運動性の両要素を満足させる最適のサイズだとされていた。ところが設計の妙か、ヴィクトリーはこのような常識をうち破った。自分よりも小さな僚艦たちと艦隊運動をしても軽快に動きまわり、遜色がない。追い風で1時間に8ないし9ノット(約16キロ)で進むことができた。
では、戦艦ヴィクトリーとは実際にどのような船だったのだろうか?
まず、いうまでもなく、艦体はすべて木材でできている。竜骨や最下部はニレ、それ以外の構造材、船殻、甲板などにはカシが用いられた。また上部甲板や隔壁にはモミ材が多かった。厚みは竜骨付近の船底で約91センチ、喫水線のあたりの舷側で76センチほどである。船殻を作るだけで、加工前の木材にして8,444立方メートルの量が必要だった。これは約40ヘクタールの森に生えている6,000本の樹木に相当するという。
次に、帆走のための装備はどうだろう? 主要なマストは3本、比較的軽量でしなりやすいマツ、モミ、トウヒなどでできていた。高くそびえるメインマストの最高点は、海面から62.5メートルもあった。マストの下部は最初は、ニューイングランドから調達してきた直径90センチの木を用いていたが、アメリカとの戦争で手に入らなくなってからは、7~9本の木を組み合わせて作るようになった。斜めに突き出た船首斜檣(しゃしょう)(バウスプリット)を合わせて4本のマストに張った帆の総面積は約5,468平方メートル、それを操作するためのロープの総延長は実に41.8キロメートルにも及んだ。
ヴィクトリーの乗組員の定数は上は艦長・上級士官から下はひらの水兵までを合わせて約850だった。この850名が、最大長69メートル最大幅15メートルほどの5層の甲板で仕切られた小天地の中でうごめき、ひしめきあいながら、長いときで2年以上も陸に上がることなく暮らしていたのである。
下っぱの水兵にとって、軍艦の乗り組みはけっして楽な稼業ではなかった。4時間ごとの当直なので、夜も昼もない。しかも帆の操作がはじまると、当直だろうが何だろうがたたき起こされて重労働だ。ただし食事だけはたっぷりとあった。また水はたいていあおく濁ってぷーんといやな臭いがしたが、日に4.5リットルのビールか、0.28リットルのラム酒の配給があるので、そちらを飲めばよい。
しかし、戦闘がはじまるとこの人口の超過密な小天地はたちまち地獄と化す。命令一下、大砲の斉射。すさまじい轟音に耳の中で千の蜂が乱舞し、火薬の黒煙にむせかえる。だがそれはまだ序の口、敵の砲弾が命中するともっと悲惨だ。砲弾は鉄の塊なので爆発こそしないが、舷側に大きな穴をあけて飛び込んでくる。するとささくれた木片が大量に飛び散り、気がつくとそこかしこに仲間たちが血を流して倒れている。つまり、いつもはたのもしい頑丈なカシの防壁が、一転しておそろしい凶器となるのだ...。

歴史を今に伝える

トラファルガーの海戦で、ヴィクトリーは大きな損傷をこうむった。マストはほとんどすべて消滅し、上部構造もひどくやられた。また敵の手榴弾のおかげで、あちこちで火災が生じた。おまけに水線下に砲弾をくらったので、浸水もはげしかった。
しかしヴィクトリーは僚艦に曳航されてジブラルタルに入港し、応急修理を受けてイギリスに帰還した。そして大規模な修理がなされて蘇った。その後も幾度か改修を受けた結果、現在のヴィクトリーに残っているのは建造当時の木材の10から15パーセントだという。トラファルガーの勇士たちははるか昔に死に絶えた。しかし、戦艦ヴィクトリーは細胞を更新させながら、今も静かに歴史の流れを見守っている。(了)

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