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オーシャンニューズレター

第154号(2007.01.05発行)

第154号(2007.1.5 発行)

海運のヒューマンインフラ新時代~ILO海事労働条約の採択~

国土交通省海事局船員政策課長◆村上玉樹

世界経済に歩調を合わせ、日本を含めた世界の海運は急速に規模を拡げようとしており、
ヒューマンインフラたる船員(海技者)の養成は急務となる。
新たに採択された海事労働条約を通じ、船員労働の環境向上と世界標準を確立し、優良な船員の確保を図ることが必要である。

はじめに―船員(海技者)の現状

ここしばらくのアメリカ、ヨーロッパ、そして日本を含む先進諸国の好況、さらにそれを上回る中国を始めとするBRICs諸国の急速な経済拡大を受けて、国際物流とりわけ外航海運は活況を呈しています。海運各社は配下の船隊の一大拡張を目指した大型投資計画を打ち出し、造船所の船台は新造船のために4年先まで押さえられてきています。この結構なお話の陰で、とても危うい状態が静かに進行しているとしたらどう思われますか。

船を動かすために必要なさまざまな要素の中に「船員」があります。大洋の波風の巨大なエネルギーをもろに受け、標識も何もない海の中で自らの位置を確認しながら走り、一方で狭い港にも出入りしなくてはならない船の操縦は、道路やレールの上を走るのとは訳が違います。働き方も特殊で、輸送中はもちろん入港してからも、長期間船に住み込み、交代で任務に当たります。この意味で船員は海運の大事な「ヒューマンインフラ」なのです。

こんなに重要な船員ですが、日本商船隊に乗り組む船員4万人のうち、日本人はわずか2,600人にまで減ってしまいました。世界各国の海運との競争が激しいために、コストを長年切りつめてきた結果です。日本人の代わりにフィリピン人を筆頭に外国人船員が乗り組むようになっていることは、すでにニュースなどでお聞きになったことでしょう。

数的にも貴重な日本人船員は、最近では定年まで船乗りを勤めることは少なくなりました。船と海の専門家として、陸上に移って船舶管理、船員配乗・教育・人事などの管理業務や営業に携わるようになってきたからです。このような元船員を含めて、広い意味で「海技者」が安全運航や海運のサービスを支えているのです。

船員(海技者)の不足問題

しかしながら、このような海技者を減らした状況で短期間に船隊規模を拡大すると、とたんにヒューマンインフラが足りなくなることは自明です。外航船員の育成にはとりわけ時間がかかります。幹部船員の資格を取るだけでも4~5年。就職して一人前の海技者になるには、さらに十数年。海運界も採用を増やしにかかっていますが、これまでの雇用抑制の結果、日本人を当座の即戦力として手当てすることができなくなっています。年齢構成上、団塊世代の層が厚いことを考えると、これとは反対にまだ数年は絶対数が減り続けることも見込まれます。

では外国人船員はどうしたのかというと、各社はすでに育成・確保の手を打っているところです。問題は、世界同時に規模の拡大が進んでいることです。優良船員の争奪戦は始まっています。船員供給国も拡大が進みます。マーケットが大きいので何とかなるよう期待したいところですが、それでも数年後には世界規模で2~3万人の幹部船員の不足に至るという予測もあります。この中でいかに質の高い船員と海技者を確保するかが今日の課題になってきました。これは複雑・高度化する物流の需要に応える海運サービスの提供と同時に、海難事故や海洋汚染の防止といった問題にも重大な関係があるのはお分かりいただけると思います。

解決のためには、船員(海技者)の確保・育成を目指して海運界、船員(海員組合)、行政が緊密に連携して実効性が上がるように取り組むことが重要で、その動きもすでに始まっています。船員教育システムを始め関連制度や支援策の見直しも避けて通ることはできないと考えます。

なお、以上のことは外航海運を念頭に置いていますが、国内物資の4割を運ぶ内航海運の事情も劣らず深刻です。高齢化が顕著である一方、日本人だけでまかなう必要があるのに船員を目指す若者は少子化もあって限りがあります。船員という職業の魅力と労働環境の向上やPRに取り組まなくてはなりません。若者・高齢者の労働力化という日本社会の直面する課題の縮図がここにあります。

海事労働条約

2006年2月、5年にわたる準備を経て、ジュネーブの国際労働機関(ILO)で新しく「海事労働条約」が採択されました。上述のように外航船員は国際労働市場から供給されますが、これまで船員の労働環境については60本以上にのぼる条約などを基にさまざまな新旧制度が入り組んでいました。このため複雑化、経年劣化、批准国のばらつき等が生じ、船員労働の保護が十分に機能しない、国際的にも不平等といった問題につながっていました。これでは船員労働の魅力を損なうとともに、国際的に均質な船員を求める需要にも対応できないことになります。ILOでは労働者、雇用者、政府の三者で構成される代表が議論に参加しますが、海事労働条約がほぼ満場一致で採択されたのは、このような現状を変えなくてはならないという認識が国際的にも一致したからです。

新条約はこれまでの条約等を統合し、内容を現代の要請にマッチさせたのは当然です。これまでの反省から、強制規定(原則)と非強制規定とを使い分け批准国が増えるように工夫しているほか、技術的規定の改正手続きを簡易化し変化への対応を考慮しています。さらに実効性担保のため、船籍国(旗国)が遵守状況を検査し証書を発給、寄港国はこれを実地確認により監督(PSC)するというシステムを労働条約としては初めて採用しています。新条約の成立によって、名実ともに船員労働の分野でグローバルスタンダードが確立されたといえます(内容と効果は図表を参照)。

今後の動き

新条約は、世界の船員労働環境の質的向上をもたらし、同時に世界海運の競争条件の公正化につながります。ひいては、これが優秀な船員と海技者の安定的な確保に寄与し、さらには船の安全運航と海洋汚染の防止に役立つことを願ってやみません。

新条約の発効は、要件から考えてまだ数年先になると見込まれます。日本としても、内航海運を含めて必要な国内制度を整備し、それに間に合うべく批准するよう準備していくことはもちろんです。すでに関係者による研究もスタートしました。同時に各国にも新条約に参加するよう、呼びかけ・支援していく考えです。その最初の事業が日・ASEAN船員政策フォーラムの一環として、海洋政策研究財団(OPRF)により2006年10月末に「ILO海事労働条約セミナー」が実施されました。引き続き、関係者と共にわが国海運の発展のため、取り組んで参ります。(了)

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