Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第139号(2006.05.20発行)

第139号(2006.05.20 発行)

21世紀における水産学・水産業の意味

東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻教授◆黒倉壽

キリスト教の成立の過程には、漁村社会の生活・文化が影響しているという仮説から、21世紀におけるグローバルシェアリングの思想・文化の形成に対する、水産学の貢献の可能性を指摘したい。

キリスト教と漁村文化


新約聖書にたびたび登場するガリラヤ湖のいまの景色。(写真:牧野久実)




ガリラヤ湖ではイエスの時代と変わらず漁業が営まれている。(写真:牧野久実)

キリスト教には漁村の雰囲気、イエスには魚くささが感じられる。

12使徒のうち、少なくとも4人はガリラヤ湖の漁師である。この4人、シモンとアンデレ、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネはそれぞれ兄弟である。シモンは妻の家族と生活をともにしていた。ヤコブとヨハネもその父と漁業をしていた。彼らは血族を中心として共同体を形成して漁業を営んでいたのであろう。イエスの刑死後も、弟子たちは漁に出かける。そこに復活したイエスが現れ、漁を指導して奇跡的な大漁に導く。それによって、復活したのが確かにイエスであることを弟子たちは納得した。初期のキリスト教団が漁業を営む集団であったことは間違いない。イエスはそのリーダーであった。もし、名刺というものが当時あったならば、イエスの名刺の肩書きは、ガリラヤ漁業協同組合・組合長であったろう。

イエスの思想は、「山上の説教」に集約されていると考えて良いであろう。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(新共同訳・新約聖書 マタイによる福音書6章26節から31節)

ここに書かれた、種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもせずに、ひたすら神を信じ、神の賜り物によって生きる人とは、まさに漁民そのものであると筆者には思われる。ガリラヤ湖における布教の開始から、思想の表明である「山上の説教」までは数年の歳月がある。イエスは漁業集団の中で初期の布教をおこない、漁業集団の中で思想を形成した。

グローバルシェアリングの思想

さて、ここで言う漁民の生き方=キリスト教の思想とはなんだろうか。おそらくそれは、漁獲された水産資源を神の賜物として、弱者を含めて共同体の中でその賜物を広く平等に分け与えるということであろう。「山上の説教」後、イエスは2匹の干し魚と5つのパンを分配して5,000人以上の人の空腹を満たした。ところで、水産学を学ぶ者が最初に習うことは、水産資源が、(1)無主物(Bona Vacantia:所有者のないもの)であること、(2)不安定で変動する資源であること、(3)再生産される資源であること、以上の3つである。漁業学・水産資源学など水産学の基本となる学問分野においては、生産の増大ということはあまり学ばない(実は筆者の専門である水産増養殖学は水産学の中では残念ながら主流とはなりえないのである)。限りある資源をいかに持続的に維持し、その資源を、どのように合理的に分け合い利用していくかが水産学の中心的な研究課題である。小は家族や漁村社会の共同体の中における分配、大は国際漁業交渉にいたるまで、その課題は変わらない。

古くて新しい水産業・水産学

交通・通商の発達の結果、今日、地球全体が一つの共同体化しつつある。その中で分かち合わなければならないものは、水産資源にとどまらない。食料その他の生物資源・鉱物資源、環境、職業、情報、文化など、多くのものを、民族間、国家間、階層間、産業セクター間、世代間でどのように分かち合うかが問題になっている。分かち合いの中に新たに加わってくる新規参入者も無視できない。グローバルシェアリングはもっとも今日的な課題である。水産学はこの問題を古くから扱ってきた学問分野である。筆者は、水産学の先駆性をそこに見出す。

水産業・水産学は現代社会においてはマイナーな存在である。しかし、ガリラヤの漁民もまた当時のユダヤ社会においてマイナーな存在であった。ガリラヤの漁村共同体で形成された思想が、やがて世界の大宗教となったように、水産業・水産学によって形成された科学・文化・思想が、様々なものを共有し、調和的発展を目指す人類の根本的な原理へ成長することもないことではない。

わが国は水産先進国である。水産学の分野でリーダーシップを取れる国である。わが国において水産学の研究教育を推進することには、漁獲量の維持・増大以上に、世界に向けて思想を発信するという意味がある。(了)

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