Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第117号(2005.06.20発行)

第117号(2005.06.20 発行)

編集後記

ニューズレター編集委員会編集代表者(総合地球環境学研究所教授)◆秋道智彌

◆森野さんの環境チケット論を読んで、30数年前の春、復帰前の沖縄・与那国島を訪れた時のことをおもいだした。与那国島の久部良港のそばにある民宿に滞在したある日の夕方、島の名物カジキマグロの夕食をすませ、薄暗がりの浜を散歩した。前日の時化の影響もおさまり、海はおだやかであった。歩きながら、なんとたくさんの牛糞がある島だとおもった。おもわず踏んづけそうになってよくみると、それは牛糞ではなく廃油ボールであった。当時、漂着ゴミのことをそれほど意識もしなかった自分を恥じつつ、いま久部良の浜はどのようになっているのかと想いを馳せる。

◆沖縄は全国でも、もっとも多く廃油ボールの漂着する地域である。いったい、だれがどこで投棄したものなのか、知るよしもない。誰も見ていないことを知りつつ、海上で不法に投げ捨てられたものであることだけはたしかだ。その廃油ボールが浜に漂着すれば地域の浜を汚すゴミとなる。廃油ボールを処理する費用は誰かが負担しなければならない。こんな道理の通らない話はないと義憤の念に駆られるのは海と関わる人ならずとも世のなかには多いにちがいない。

◆海はみんなのもの、誰のものでもあるはずだ。美しい浜と澄んだ海はみんながともに利用し、いつくしむ場である。しかし、それが失われていく現場を知る人の「歯がゆさ」を、九十九里浜で見守りつづけてこられた小関さんが生き証人として語っている。小関さんの写真は、まぎれもなく海にたいして人間が犯してきた罪を断罪する証拠物件なのだ。

◆共有の海という考えは、環境汚染の問題だけにかぎらない意味をもっている。金田さんの海洋秩序論は、「地域公共財」としての海の意義を明言したものであり、注目すべきとおもう。海をめぐる利害関係がますます国際的な緊張を増幅させている今日、どこでもよいから、浜に行ってみよう。そして、砂を握りしめながら海はだれのものかについて考えてみようではないか。(了)

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