地域と住民の視点を反映
激戦の地に開館した「インパール平和資料館」(1)

2019.07.04
(写真)「レッドヒル」の麓に建つインパール平和資料館

「レッドヒル」の麓に建つインパール平和資料館

 第二次世界大戦の激戦地だったインド北東部マニプール州インパールに6月22日、「インパール平和資料館」がオープンした。資料館を運営する現地の民間団体「マニプール観光協会」に対し、日本財団が建物などのハード面で、笹川平和財団が展示コンセプトを中心とするソフト面で支援し、2つの姉妹財団によるコラボレーションが実を結んだ。「太平洋戦争で最も悲惨な戦い」と評され、膨大な数の旧日本軍とインド国民軍(INA)の兵士、英国軍など連合軍の兵士、そして地域住民が命を落としたインパール作戦から、折しも今年で75年。激戦地だった「レッドヒル」の麓に建てられた平和資料館は、まさに「平和と和解」の象徴であり、歴史を後世に伝えるものだが、実は「地域住民の視点」が展示コンセプトに強く反映され、当初の「戦争・軍事資料館」のようなものから、戦場となった地域と人々の過去と現在を描き、未来にもつなげる資料館へと方向転換した経緯がある。

多様で複雑な地域

 インパールの中心部に広がるカングラ宮殿の遺跡が、この地がかつてマニプール王国の都であったことを偲ばせる。意外なことに遺跡には、馬に乗りスティックでボールを打つポロの「最古の競技場」もある。マニプールの伝統的なポロを英国軍が本国へもち帰り、欧州に広まっていったのだという。

 チベット・ビルマ語族のメイテイ族が中心となって構成されたマニプール王国は、1891年に英国領インドの下で、保護国である藩王国となり、第二次大戦におけるインパール作戦によって、「アジアのスターリングラード」とも言うべき場所として世界の表舞台に押し出された。そして、1947年の英国撤退後、マニプール王国も晴れて「独立」を果たし、独自の憲法も制定された。しかし、1949年10月に当時の国王(マハラジャ)がインド政府との合意書にサインしたことで、インドに併合され、王国は消滅する。マニプールが連邦直轄領(56年)を経て州となったのは、72年のことである。この複雑な歴史が「インド本土」への反感やいわゆる反政府勢力の台頭にもつながったことは想像に難くない。

(写真)中央ホールを彩る諸民族の写真と、カラフルな民族衣装の布

中央ホールを彩る諸民族の写真と、カラフルな民族衣装の布

 人口約250万人のマニプールには、多様な民族が暮らしており、その数は、現時点で32にも上るという。メイテイ語(マニプリ語)を話し、ほとんどがヒンドゥー教徒のメイテイ族は平野部に暮らしており、周囲の丘陵地帯にはナガ族やクキ族などがいる。丘陵地帯の住人にはキリスト教徒が多く、インパールとその周辺にはイスラム教徒も住んでいる。こうした民族と言語、宗教の違いがもたらす複雑さと多様性は、インド北東部全体ともなると、いっそう増幅される。

 インド北東部とはマニプールのほかアルナチャルプラデシュ、アッサム、シッキム、ナガランド、メガラヤ、トリプラ、ミゾラムの計8州を指す。中国、ミャンマー、バングラデシュ、ブータンと国境を接し、インドの総面積の7%を占める北東部には、総人口の3%強に当たる約4400万人が暮らす。住民の多くはチベットやビルマ(ミャンマー)、タイなどから移り住んだ人々の子孫が、中心である。

 大まかに言えば、この地域にはメイテイやクキ、ナガに加え、アボル、ミリ、ボド、ガロなど実にさまざまな民族と言語が混在し、その数は400にのぼるともいわれる。言語は、インド・ヨーロッパ語族とドラヴィダ語族系が主流言語であるインドの他地域とは異なり、チベット・ビルマ語族系がほとんどで、しかもそれらは多数の諸言語に分かれており、オストロ・アジア語族系も話されている。宗教もヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、土着信仰、仏教の信徒がおり、極めて複雑なモザイク模様をなしている。

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