中国経済セミナー登壇者インタビュー Vol.4 津上俊哉氏(日本国際問題研究所客員研究員、現代中国研究家)
笹川日中友好基金は、中国の米中新視角基金会(周志興主席)の協力を得て中国経済セミナーシリーズ(全3回、2021年12月~2022年2月)を開催しました。本セミナーのコメンテーターとしてご登壇頂いた日本国際問題研究所客員研究員、現代中国研究家の津上俊哉氏に中国の経済政策やその教訓等についてお話を伺いました。(2022年7月5日収録)
奥平が当財団の一員になったのは、昨年夏だった。財団で総務部に配属されるやいなや、新人職員とは思えない速度で、財団を「インクルーシブ(障がいの有無に関わらず、色々な人が参加できる社会環境)な職場」に変化させつつある。
奥平は、産後すぐに脳性まひに罹患し、長距離の移動は車いすを使用している。富山県で生まれ、幼少期から県内の障がい者施設で暮らしていた。
彼女が養護施設の高等部に通うようになった頃、「このままずっと同じ場所、小さな世界しか知らないで、人生を過ごすのは嫌だ。世話をされる受け身だけの生活から飛び立ちたい」との思いが次第に大きくなっていった。
いつも笑顔
奥平は大学受験を決意した。しかし、校長をはじめ、施設側の強固な反対にあった。「施設で大学受験に受かった人が、いなかったせいかもしれない」と考えた。当時は障がい者の入学を拒否する大学が多く、地元の大学は受験できなかった。大学の扉は、障がい者に門を閉ざしていた時代だった。
幸運にも両親は「自分の好きなことをやりなさい」と彼女の背中を押してくれた。放課後や週末には、何人かの先生がわざわざ時間を割いて陰ながら応援し、勉強を見てくれた。
一年間の猛勉強の末、当時、障がい者の入学を受け入れていた京都の私立大学に合格を果たし、インド哲学および原始仏教を専攻した。
京都でひとり下宿しながら大学に通うのは、不安ではなかったのだろうか。「ずっと施設で暮らしてきたから、障がいがない同級生に話しかけるのがこわかった。友達ができないで、このまま失語症になるのか、と思うと落ち込んだわ」と入学時の困惑を振り返った。「数週間後、同じクラスの女子3人組が声をかけてくれた。それがきっかけになり、クラスになじむことができた。仲間も友人もできて楽しかったから、辛いことなんて覚えてないわ」と笑った。
イベントを主導
大学生活に慣れた頃、新たな目標を見つけた。「サークルに入りたいなあ、と思っても健常者に対するコンプレックスがあり無理だった。何かできないかって考えていた時に、英語で外国人の道案内をしている人を見て、すてきだなとあこがれた。それで英会話の勉強をしてみようと思ったの」と英語との出会いを語った。
卒業後は福祉機器を取り扱う企業に就職するが、その年、民間企業が開始した「障害者リーダーアメリカ派遣事業」の第一期生の一人に選ばれ、アメリカのカリフォルニア州、バークレーを訪れたのが、人生の大きな転機となった。
渡米が転機に
1982年。奥平は初めてアメリカの土を踏んだ。バークレーにある障がい者自身がサービス提供者として、障がい者の地域生活をサポートする「バークレー自立生活センター」で7か月研修を受けた彼女は、障がい者に対する日米のギャップに、大きな衝撃を受けた。「すべてがキラキラ輝いて見えた。社会と障がい者との間に横たわる壁が薄いのに驚いた。こっち側とあっち側じゃなくて、お互いが共生している。道路や建物のアクセスにしても、障がい者の視点が取り入れられていたし、障がい者が普通に地域で暮らしている姿を見て本当にびっくりした」。
日本で「交通バリアフリー法」、つまり、一定以上の利用客がある駅でのエレベータ設置が義務付けられたのは、2000年である。アメリカの現状を目の当たりにした驚きは想像にたやすい。
研修からいったん日本に戻った彼女は、再度の渡米を決める。先の研修先でアルバイトをしながら、アメリカで3年半を過ごした。
帰国したのち上京。一般企業で約10年働いた後、研修時代の友人に誘われ、障がい者団体に勤務した。その後、日本障害者リハビリテーション協会に入り「アジア・太平洋地域障害者リーダー育成事業」のかじ取りを任せられる。途上国の障がい者の発掘、リーダー育成、研修プログラムの開発と実施などに従事した。
協会での実績を認められた彼女は、国際協力機構(JICA)で障がいがある紛争被害者の社会促進を支援するプロジェクトの専門家として、南米コロンビアに赴任、一年余りを現地で過ごした。
帰国後、同じ職場に復帰して2年、CBID(Community-based Inclusive Development:地域に根ざした共生社会の実現)やSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の普及と推進に没頭した。
奥平は更に新しい世界を見たくなった。あふれる好奇心に突き動かされて、当財団の職員採用に応募することを決めた。
まず昨秋には、全役職員に対して「障害平等研修(DET:Disability Equality Training )」を実施した。ワークショップでは、車いす利用者や目の見えない人に対するサポートの方法を体験した後、グループワークを通して「障がいはどこにあるか」について考える機会を設けて、財団職員の心のバリアフリー化を進めた。
さらに、先にあげた海外の活動家による講演会を開催し、当財団の事業部に、障がい者職員を雇用することも実現した。
講演会を見守る
奥平は、新年度(2019年度)から、ダイバーシティ推進プロジェクトを牽引する。その目的は、当財団の事業運営をよりインクルーシブにすること。たとえば、手話通訳やテキストを用意して、当財団の各事業部が開催するさまざまなイベントに、障がい者が気軽に参加できる環境づくりの実現を目指す。さらに、ダイバーシティへの取り組みについて、日本と欧米のギャップに関する調査研究のプラットフォーム構築を計画している。
当財団で、奥平の活動が始動してまだ半年だが、職員はどんどん彼女のパワーと情熱に巻き込まれて行くのを体感している。「障がいのある人を一方的に援助するのではない。目に見える障がい、目に見えない障害を取り除き、同じ目線で協力して共に歩むこと」の意義を理解しつつある。
明日に向かって
奥平は、今日も多忙だ。新規プロジェクに向けて、精力的にメールを打ち、各方面に電話をかけ続け、財団内外の会議にも出席し、情報収集とネットワーク作りにまい進している。
一年足らずで、車いすに乗った彼女の姿は、所属する総務部に不可欠な存在になり、財団のムードメーカーになった。
奥平は挫折しても、あまり落ち込まないそうだ。「うまくいかなかった時は反省して、どうすればうまくいくかを考える。次の目標に向かって頑張ってみる。どうしてもだめなら、方向転換。なんでもポジティブに考える性格だから」と自己分析した。 財団職員の目に映るのは、彼女が障がいを可能性という光に変えて、前進する姿である。
奥平のチャレンジは、これからも続く。