中国経済セミナー登壇者インタビュー Vol.4 津上俊哉氏(日本国際問題研究所客員研究員、現代中国研究家)
笹川日中友好基金は、中国の米中新視角基金会(周志興主席)の協力を得て中国経済セミナーシリーズ(全3回、2021年12月~2022年2月)を開催しました。本セミナーのコメンテーターとしてご登壇頂いた日本国際問題研究所客員研究員、現代中国研究家の津上俊哉氏に中国の経済政策やその教訓等についてお話を伺いました。(2022年7月5日収録)
笹川日中友好基金は、中国の米中新視角基金会(周志興主席)の協力を得て中国経済セミナーシリーズ(全3回、2021年12月~2022年2月)を開催しました。本セミナーの第3回目に講師としてご登壇頂いた北京大学国家発展研究院教授、伍暁鷹氏に経済成長論などについてお話を伺いました。(2022年5月31日収録)
聞き手:宋看看(上海東方テレビ東京支局長)
――まず、伍先生が当初"経済成長という研究テーマを選んだ理由や時期と目的をお聞かせください
興味深い質問ですね。後ほど当時の経歴をお見せしましょう。
戦後生まれたさまざまコア技術は自由市場経済のたまものです。技術なくして成長の持続は不可能です。我々も当初は技術の出所など気にせず改革開放政策を実行し外資を受け入れました。そしてある程度の期間で急成長を実現した。ただ急成長に伴い所得もハイペースで伸び労働コストも上昇します。いかなる経済成長も10年20年と永遠に続くことはあり得ません。そしてある時点で皆が成長がピークに達したと気づくのです。その最たるシグナルは労働生産性の向上でコストの上昇を克服できなくなることです。中国の労働者のコストは最終的に必ず上昇します。インドやベトナムより更に高くなる。このことは不思議ではないし恐れることもない。日本や韓国も通った道であり台湾も同じです。台湾のチップ技術はすごいそしていずれもこの段階に達すると整備された制度環境が不可欠であり、それにより経済の不断の革新が保証される。市場に立ち返らなければ長期的な経済成長はない。経済成長の研究の道をなぜ選んだかについてですが象牙の塔にこもりこの問題を研究したかった、これが根本的な動機です。
――研究のため、関連の歴史調査を実施されていますね。本を1冊出版できるほどでは?
まさに進めている最中です。私の著作計画ですがほぼ準備は終わっており3冊出版する予定です。現時点の計画では3冊です。過去40年間に関する原稿は着手済みでほぼ確定しており、まずこの40年間を1冊にまとめる。続いて遡り1949年から改革開放までの30年間で1冊。この間に制度が大きく変わった。30年と40年で70年になりますよね。最後にデータの把握が可能な1870年まで遡る1870年から戦後まで、つまり戦争終結までの期間です"。我々にとっての戦争終結は1949年ですね。戦時の部分が最も難しい。戦時経済は日中戦争の期間に関連してきます。日本の中国への侵入ですね。この戦時の部分は特に難しく、目下鋭意検討中です。長期的な経済成長に関するこの3部作を研究成果として示すべく取り組んでいます。
――戦時経済の資料が中国ではなく日本やアメリカで見つかることは?"
その通りです。日本について言えば一橋大学に南満州鉄道の資料があります。貴重な資料です。その当時の目的については言うまでもありません。ただ根底には日本における極端な資源の欠乏がある。だから日本は周辺国に対する資源調査を非常に熱心かつ綿密に行ったのです。戦時中に没収発見された日本の地図を見れば分かる。どの村や町についても我々の地図より詳細に描かれています。僻村の井戸の場所までその地図には明記されている。綿密な調査を行っていたわけです。ただ私は歴史家でも戦争研究家でもありません。目的はあくまで歴史や戦争が経済に与える影響を探ること。当時の満鉄は多くの資料を収集し当時の国民政府も統計資料を発表していましたが、戦争で散逸してしまった。彼らはこうした資料を集め、新たに構成し直して再生したのです。私はそうした資料やデータを参考にできる、この点は私にとって重要です。
――各国でこの分野は人気がないのですか?研究者が多い国は?
長期的な経済成長という研究分野は世間離れしているとも言えます。なぜか?短期的な経済成長は特に皆の目が向く短期的な利益につながります。通常人は目先の成長や問題を重視するものです。例えば政治家などは目先の問題が飯の種に直結しますからね。しかし我々はこう考えます。今に至る来し方は?もし皆が目先の利益を追ったら?長期的な経緯は?革新を支える制度は?多くの技術は欧米で生まれたが日本人は模倣を通じて省材料化、小型化、便利化を図った。その模倣過程の革新に伴い、数々の変化が生まれたのです。なぜ革新が可能な国と不可能な国があるのか?一部の経済国は短期間にキャッチアップするものの、成長が減速し停止してしまう。これは長期的成長の問題です。
――では不人気だと?
そうですね。
――では日本にいらして同じ分野の研究仲間に出会いましたか?交流や議論の中で何か得たものは?"
ありましたよ。一橋に来ることができて幸運でした。私の人生の師であり学術面の指導者でもある人物はアンガス・マディソンです。彼は長期的成長の分野で更には計量的な手法による研究で、経済学の領域において第一人者と言うべき人物でした。1990年代に彼から一橋を勧められました。彼は多くの一橋の学者と知り合いでしたから。ただその時私は行きませんでした。当時香港で家を購入していたのでね。香港の学術界の給与は世界最高レベルです。当初オーストラリアで学び、仕事をしていましたが、後に香港に移ったのです。最終的に2008年になって一橋に行くことを考えました。皆が誘ってくれたのです。一橋には同分野の人材がおり研究拠点でもありました。当時大川先生が日本の長期的成長について叢書を出しておられた。後にアジアに関するプロジェクトも開始し、私も会議に招かれ評論したり文章を寄せたりしました。これは90年代末期から2000年頃のことです。そして2008年、2009年頃に一橋に行くことに決めました。マディソンは「一橋は希少な象牙の塔だ」と講義を強制されない自由な環境なのです。大学のサイトに自分の研究志向と院生向けの講義の内容を掲載します。日本語で言う“ゼミ”ですね。もし自分の研究分野に興味を持つ学生が少なくて、高尚な学問だと思われ無関係だと敬遠され、不人気で学生が来なければかえって気楽というものです。研究に時間を割けます。実際には院生もおり、他のプロジェクトもあるが、学生が少なければ時間ができる。
――日本の学者の専門は日本で伍先生は中国ですね。互いに啓発されますか?
もちろんです。事例を1つ挙げましょう。例えばグラフを作って比較するとします。100年間におけるアメリカ、日本、中国の工業化の過程を比較するのです。そして成長過程を米ドル換算の1人当たりGDPで比べる。この時1990年の固定為替レートを用います。金融危機が発生したためです。2008年の世界金融危機と1997と98年のアジア通貨危機、この影響で中国の経済成長は鈍化しました。アメリカは1840~1940年まで、日本は1870~1970年まで、中国の場合はだいたい1915~2015年まで、それぞれ100年間をグラフに示す。これは互いの比較ですが、この分野の学者はアメリカにはある程度います。日本は亡くなった方もいて、多くはありませんがこの分野に関心を持つ同僚が1人います。彼は退官を2年後に延ばしたばかりです。彼はまた同時にジェトロ・アジア経済研究所の所長でもある。彼の名前は深尾京司さんです。
――深尾京司さんはGDPについてネットで解説されていますね。中国を貶める発言とのコメントもありますが反論は?
技術について皆で議論していると、中国は既に進んでいると言う者もいれば、コア技術がないと反論する者もいる。そうなるとネット上で論争が始まります。中国を貶めると言われたりとただ感情的に反応する必要はない。バカげたことです。なぜ市場が革新という問題を解決できるのか?長期的成長の問題も短期的には既存の技術を模倣すればいい。日本も韓国もそうでした。模倣から始めてその過程で競争圧力を受けるようになってこそ、模倣から改良進歩が生まれます。改良型の革新ですね。そこには発見と覚醒があります。