Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第568号(2024.04.05発行)

信頼醸成と武力紛争抑止の柱としてのシーパワー

KEYWORDS 信頼醸成/紛争抑止/海上自衛隊
海上自衛隊幹部学校長◆江川 宏

アルフレッド・マハンによって提唱されたシーパワーの概念は海上交通路や国益上あるいは作戦上で必要な海域を排他的にコントロールすることが目標とされていたが、現在は、国際秩序が維持された安全な公共財としての「自由で開かれた海洋」を維持するためのもの、即ち信頼醸成や武力紛争抑止に資する外交ツールへと変化している。
海洋秩序が揺さぶられている現代においてシーパワーはどのような影響力を有し、どのような戦略的役割を期待されているのか。
戦略三文書の改定
2022年12月に閣議決定された戦略三文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略および防衛力整備計画)では、これまでのわが国の安全保障政策を維持するものの、外交や防衛、経済、情報技術などの総合的な国力を最大限活用して実践面での変化や展開を図ることが明記されている。初の国家安全保障戦略が閣議決定されたのは2013年であるが、国連安保理常任理事国であるロシアのウクライナ侵攻をはじめとして、わが国を取り巻く安全保障環境は大きく変化したことが2022年に改定された大きな理由である。
わが国を含むインド太平洋地域も例外ではなく、いわゆる米中対立をはじめとした対立構造が存在する。その一方、インド太平洋地域は世界のGDPの約6割を生み出し、さまざまな政治体制や地理的条件を有する国家が所在する複雑な地域でもある。このような状況に鑑み、沿岸国のみならず欧州各国も積極的に関与する姿勢を強めているのが現状である。
概念としてのシーパワーの変化
マハン(A. T. Mahan)が『海上権力史論』(1890)で提唱したシーパワーは、決して厳格な定義がなされているものではないが、海外との通商や物流、植民地の確保などに基づくのみならず、歴史上の覇権争いにおける制海権の確保の淵源であることを理論化したことがマハンの学術的な貢献である。また、コーベット(J. Corbett)も『海洋戦略の諸原則』(1911)において、海上交通路(SLOCs)の確保が重要であることを指摘している。即ち、シーパワーの概念が整理され始めた頃は、海上交通路や国益上あるいは作戦上で必要な海域を排他的にコントロールすることが目標とされていた。
しかし、時代を下るに従って、シーパワーの概念は制海権もしくは排他的な海洋の利用から、平素から既存の国際秩序が維持された安全な公共財としての「自由で開かれた海洋」を維持するためのもの、即ち信頼醸成や武力紛争抑止に資する外交ツールへと変化している。この変化を加速させ、既存の国際秩序を形成するに至った一因としては、20世紀以降に世界秩序の維持を担った米国の活動が挙げられる。第二次世界大戦後に英国から海洋覇権を引き継いだ米国が海洋を公共財と位置付け、法の支配に基づく、平和と安定した海洋秩序の維持を目指したことを無視することはできない。
一方で、南シナ海をはじめとして、一部の関係国による一方的な現状変更の試みが行われていることを放置することは許されない。事態の悪化や脅威の顕在化を阻止するためにも、安定した安全保障環境の創出は必須である。そのためには、当事者による濃密なコミュニケーションの維持が絶対的に必要である。インド太平洋地域におけるさまざまな国際問題における当事者による協議、そして、実際に協力関係が構築されるまでのプロセスに対し、わが国は数十年にわたって支援を進めてきた。これらの支援の中核は外交・安全保障に係る取り組みとなるが、その前提は相互支援および相互信頼であり、紛争抑止や平和的解決の枠組み作りが付随的あるいは段階的に実施される。
現代において期待されるシーパワーの影響力
これらの課題を解決するために求められる信頼醸成や紛争抑止に対して、シーパワーはどのような影響力を有しているのか。インド太平洋地域においては、南シナ海における領有権争いだけではなく、台湾海峡の平和と安定問題も注目を集めているが、このような対立や緊張のエスカレーションを適切に管理し、偶発的な事態を防止することが急務となっている。当事者による対話を通じた相互理解や情報公開を通じた透明性の確保、さまざまな活動に対する合意形成などが図られれば、防衛交流をはじめとする信頼醸成措置が構築される。海上自衛隊における取り組みを例に挙げると、人的交流から始まり、艦艇の相互訪問へと発展させることによって、具体的な透明性の確保を図っている。
他方、武力紛争の抑止となると、これは侵略や先制武力行使を図る主体の意思に働きかけることが強く求められる。武力行使により発生するリスクや負うべき代償が後々まで大きな負の影響をもたらすということを相手に認識させて、行動を思いとどまらせることこそが抑止の基本的な考え方である。今日、米国は依然として世界最大のシーパワーを有しており、わが国の同盟国である。米国は現在に至るまで、わが国をはじめとする同盟国と連携して、法の支配に基づく海洋秩序の形成・維持、公共財の提供をし続けている。しかし、国際社会におけるパワーバランスの変化や政治的指導力の流動化の影響により、国際社会の団結が抑止を有効に機能させることが年々難しくなっている。このような状況を改善するためにも、同盟関係の強化や普遍的価値を共有するメッセージングなどが有効である。また、地域社会の安定化も重要であり、域外のガバナンスの強化に加えて、シーパワーを広く位置付けることにより、決して軍事に偏った支援ではなく、幅広い広範な支援を求める発展途上国に提供するオプションとしても、シーパワーは有効である。
地域シーパワー・シンポジウム(2022年10月)の様子(出典:海上自衛隊ウェブサイト)

地域シーパワー・シンポジウム(2022年10月)の様子(出典:海上自衛隊ウェブサイト)

平時におけるシーパワー
普遍的価値を共有しない国家や集団が自らの利益を排他的に確保しようとする一方的な現状変更の試みを許容してはならない。そのためにも、安定的な安全保障環境を創出することが最優先の課題である。シーパワーは高い柔軟性や国際性などの特質を活かし、より頻繁にあるいは広範に定義される概念である。しかしながら、国家やその周辺地域の繁栄を担うという意味において、マハンが示したシーパワーの定義は、今日も朽ちることなく有効であろう。従って、外交・安全保障政策を担保する狭義の海軍力を含め、シーパワーが有効に機能することを国際社会は等しく認識すべきである。そうであるからこそ、関係国との防衛交流において、建設的あるいは安定的に寄与する同盟国や同志国との繋がりを大きく太く重層的に作り、抑止力を強化するという、平時のシーパワーの戦略的役割は今後一層求められるのである。(了)

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