Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第566号(2024.03.05発行)

タイのジュゴン保護区と漁民 ~アンダマン海の事例~

KEYWORDS ジュゴン/保全活動/地域漁業
京都大学大学院情報学研究科社会情報学専攻生物圏情報学講座博士後期課程院生◆阿部朱音

タイのタリボン島におけるジュゴン保全は成功例と言える。
豊かな海のシンボル・ジュゴンを守れば漁業も栄えるという考えから海洋保護区が設置され、地元NGOや民間団体も活躍した。
さらに幼いジュゴンの死により住民の意識は一層高まった。
しかし、住民の持続可能な生活の基盤となる海洋の実現には、まだ課題が残されている。
タリボン島のジュゴン─保全に至る背景
ジュゴンは草食性の海生哺乳類で、太平洋とインド洋の熱帯・亜熱帯域に断続的に分布している。ジュゴンの餌場は沿岸に住む漁民にとっても重要な漁場であるため、漁民と、ジュゴンの保全を目指す者との間でコンフリクトが報告されており、絶滅が危惧されている。
筆者は、東南アジア最大のジュゴン個体群が生息しているタイ国トラン県最大の島であるタリボン島で、ジュゴンと漁民の調和的な共存に向けて調査を行った。タリボン島周辺では、他地域と比べてスムーズにジュゴン保全が行われている。言い換えると、目立ったコンフリクトなくジュゴン保全が進行している。ちなみに島周辺域のジュゴンにとって、主な脅威は刺網による混獲、そして牙目的の密猟である。
先行研究では、タイの海面漁獲漁業は、1960年代にドイツ式の商業漁船が導入され、巻き網漁船やトロール漁船による大規模漁業の始まりを機に生産量が増大したことが報告されている。その急速な拡大は、海洋資源の激しい搾取と枯渇、資源紛争、漁場の劣化につながったという。加えて、エビ養殖池の造成によるマングローブ林の破壊など環境問題も顕著となったことは有名である。東南アジアでは、地域住民や資源利用者が資源管理に関する決定過程に参加する度合いが高く、1990年代から沿岸域資源管理に関する地方分権化が急速に進んでいたことが報告されている。まずタリボン島の周辺地域で「漁業保全=ジュゴン保全」というパッケージが形成され、タリボン島へとジュゴン保全の思想が持ち込まれた。
そして2004年のスマトラ島沖地震の復興支援として、地域のエンパワーメントと環境保全を主目的としたNGO「Save Andaman Network」が大きな役割を果たした。アンダマン海側では、津波被災以前から漁村開発に関わる各種プロジェクトが計画・実施されていた。タリボン島民含むアンダマン海の漁民にとって、資源管理や村落開発に関わるものごとをボトムアップで決めていくことは、津波被災時点ですでに定着していたと言えよう。2007年にはタリボン島の北に位置する4つの村落が主体となり、レセバン保護区という、海草藻場と漁業資源、ひいてはジュゴン保全を目的とした保護区を作った。また、2011年に「移動性野生動物種の保全に関する条約」(ボン条約)のジュゴンに関する覚書にタイが署名したことは、ジュゴン保全の大きな推進力となった。
ジュゴン保全がスムーズに進んだ背景には、1990年代以来の漁村開発プロジェクトの流れがあったこと、また、漁業保全の文脈と豊かな海のシンボルとして「ジュゴンを保全するとメリットがある」という考え方が強化されていったこと、ローカルNGOが円滑な合意形成を進めたこと、研究者の姿勢も地元を尊重するボトムアップ志向であったことなどがある。なお、タリボン島のジュゴンの新保護区(図1)設立にあたって、「ジュゴンガード」というタリボン島発祥の民間団体が島民を巻き込む上で大きな役割を果たした。
■図1 破線のエリアがレセバン保護区。実線のエリアが新保護区(Aがメイン保護区、Bが2次保護区)

■図1 破線のエリアがレセバン保護区。実線のエリアが新保護区(Aがメイン保護区、Bが2次保護区)

幼いジュゴンの来島と死
新保護区の整備が進む中、タリボン島民とジュゴンの関係性を変えた大きなできごとがあった。母親とはぐれたマリアムという名のジュゴンがある島に漂着した。保護され海に返されたものの、再び漂着してしまった。マリアムは幼獣でまだミルクを必要としており、専門家たちはタリボン島にマリアムを移し、柵のない岸辺で授乳や運動などの世話を交代で行った。研究機関やジュゴンガードが24時間体制で世話をする様子はタイ全土で大きなニュースとなり、SNSによって拡散された。また、タイ各地から観光客が訪れ、島の経済が大変活気づいた。
ちなみにマリアムを保護した時点では、新保護区の境界を示すブイがまだ設置されておらず、ルール違反者を取り締まるシステムも整っていなかった。マリアムが注目を集める中、同時期に別の場所でジャミルという名のジュゴンが保護された。タイの王女は「タイにおけるサンゴ礁と海洋生物の保全プロジェクト」を立ち上げ、その中でマリアムやジャミルを特別に支援するということを決定した。しかし、大変残念なことに、マリアムは114日後の2019年8月17日に死に、血液の感染症とともに、胃内からプラスチックが発見された。さらに、ジャミルも5日後に死んだ。この幼い2頭の死は世界的なニュースになった。タイの人々の関心の高さを示すエピソードとしては、マリアムの死後すぐ、タイ環境省が「タイ国ジュゴン・マスタープラン」について議論をするための会議を開いたことなどが挙げられる。ジュゴンガードのスタッフによると、「マリアム保護はジュゴンを愛おしむ心を島民に与え、保護区の設立が漁業資源の増大につながるという当初の考えから、ジュゴンや海生生物をさらに守っていこうという気持ちへと変化させた」そうだ。マリアムがタリボン島にやってきたことによって、ジュゴンガードの知名度は高まった。そして、より公的な機関となりファンド化した。ファンド化で他の組織との協力がしやすくなり、資金面でもタリボン島におけるジュゴン保全の基盤が整った。
地域漁民の暮らしとの両立
ジュゴンの保全活動が持続するためには、地域のコミュニティと専門機関の連携が不可欠であり、そのバランスを取ることが成功の鍵と言える。タリボン島においては、まさにその歯車が噛み合った好例と言えよう。現在は取り締まるシステムも整い、保護区は全面的に運用中である。世界的に見ても、この地域はジュゴン保全の成功例と言えるだろう(図2)。しかし、漁業と観光業、ジュゴン保全の両立の問題がある。漁民たちには漁業資源の減少に伴って漁業に見切りをつける動きがあり、天然ゴムプランテーション業も最盛期ほどの収入が得られない状態である。今はジュゴンを観光の目玉として活用するしかないという、生業の選択肢が限られている現状があり、観光業の隆盛も一過性で終わる可能性もある。タリボン島周辺のジュゴン個体数は減少していないが、「ジュゴンのいる豊かな海」が「持続的に漁業や観光業のできる豊かな海」であるかどうかは疑問である。ジュゴン保護が漁業資源回復に直結すると言えない実態がある。島の重要水産種であるタイワンガザミ漁の例を挙げると、保護区内で規制が行われたとしても、タイワンガザミの主な漁場は保護区外であり、現状タイワンガザミ保護対策はほとんど何も行われていないに等しい。
このように、保護区によるジュゴンの保全だけでは地域漁民の暮らし向きを安定・向上させることが難しいという懸念がある。保全の視点を広げ、漁業資源の回復を含む総合的な取り組みが必要とされている。(了)
■図2 タイ・アンダマン海のジュゴン生息数の変化(出典:DMCR=タイ海洋沿岸資源局)。2014、2016年はタイ湾の生息数も含む(2015年はデータなし)

■図2 タイ・アンダマン海のジュゴン生息数の変化(出典:DMCR=タイ海洋沿岸資源局)。2014、2016年はタイ湾の生息数も含む(2015年はデータなし)

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