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オーシャンニューズレター

第550号(2023.07.05発行)

おさかな供養碑が語る東京湾海苔養殖終焉のものがたり

KEYWORDS 供養碑/高度経済成長期/海苔養殖の盛衰
東海大学海洋学部海洋文明学科教授◆関いずみ
日本各地に千数百存在するおさかな供養碑は、地域の漁業の歴史や生きものへの人々の思いなど、実に多くのことをものがたってくれる。
大森や川崎に残されている東京湾の海苔養殖に関する供養碑のいくつかをめぐり、その繁栄と終焉のものがたりを紐解くこととする。
おさかな供養碑のものがたり
日本人は古くから動物や植物、さらには道具や人形のような生き物以外のものまで、ありとあらゆるモノを供養してきた。多岐にわたる供養の対象物の中で、特に水域の生物に関する「おさかな供養」に注目し、アンケートや先行研究からの供養情報のリスト化、近代における魚の供養から読み取れる水産資源と人との関わりに関する考察などを行ってきたのが、東海大学海洋学部の田口理恵氏をリーダーとする研究グループである。田口らは2011年の時点で収集した基礎データをもとに、「石碑、祠、塔婆、位牌、塚など、祀るために設けられた人工物を広く供養碑としてとらえ」、1,141基の供養碑をリスト化した※。これらの中で、年代が分かっている供養碑の半数近くは戦後に作られたものであり、平成に入って作られたものも全体の1割以上ある。生きものの命を悼み、命と共にある生業を慈しむ気持ちは、時代を超えてつながっている。ここでは、おさかな供養碑が紡ぐ海苔養殖のものがたりを紐解いてみたい。
石碑が伝える東京湾の海苔養殖の歴史
東京湾では、1600年代にヒビ建てによる海苔養殖が始められたとされ、大森や品川では、1700年代前半には本格的な生産が行われるようになっていた。1800年代には海苔養殖の技術は千葉県や神奈川県に広がっていく。しかし、海苔養殖の繁栄の一方では、激しい漁場争いなども頻発していた。
大森漁業協同組合の跡地、現在の大田区立児童館の庭先に、大森漁業協同組合による「漁業記念」の石碑がある。背面に記された漁協の沿革によると、明治の漁業法が成立した翌年、1902年に「大森町漁業組合設立」とあり、体制が整い海苔養殖の秩序が確立していく様子が想像できる。しかし、戦時下の1938年には「補償責任大森漁業協同組合設立認可」、1944年には「補償責任大森漁業協同組合解散命令、大森漁業会設立認可」、1949年には「大森漁業会解散命令、大森漁業協同組合設立認可」と、激しい時代の変化に組合組織のあり方が翻弄される様子が伺える。
石碑の表には、1682年に大森の住人、野口六郎左ヱ門らが幕府に願い出ることで始まった、大森の海苔生産の300年の歩みが凝縮して述べられている。江戸時代から「浅草海苔の中心的産地として全国に君臨し」「漁民の努力」により全国の「海苔養殖業の先駆者として業界の指導的役割を果たしてきた」大森地区の海苔養殖の歴史は、しかし1964年に幕を閉じる。時代は高度経済成長期の真っただ中、日本中が東京オリンピックで沸き返っていた真にその時である。碑文には、「東京湾埋め立て事業により国及び東京都の発展に寄与するため不本意乍ら自らの漁業権を全面放棄」せざるを得なかった無念の気持ちが綴られている。
大森地区には、大森漁業協同組合の「漁業記念」の石碑以外にも海苔に関する石碑がある。ここでは2つの「海苔納畢(のうひつ)の碑」について記す。一つは大森西の諏訪神社にある石碑で、大森漁業協同組合と海苔製造業によるものである。もう一つは大森東の貴船神社にあるもので、浜端連合会による建立と記されている。これらの碑には、江戸時代から続いてきた海苔養殖の発展の歴史と、高度経済成長期に高速道路第一号線建設による漁場埋め立ての計画が持ち上がり、漁民と関連機関が何回も交渉を重ねた末に、1962年12月3日漁場全面放棄の調印が行われたことが述べられ、漁業の伝統の継承と子孫への神明の加護を祈願する言葉で結ばれている。
大森にほど近い神奈川県川崎市にある川崎大師は、全国からの信仰を集める厄除け大師である。この川崎大師の中にも海苔養殖にまつわる2つの石碑がある。一つは1920年に建立された「海苔養殖紀功之碑」である。この碑は多摩川の河口付近の海域を漁場として始められた海苔養殖の隆盛を記念して建てられたもので、地域の海苔養殖のそれまでの歩みが刻まれている。碑文によると、この地域の海苔養殖は1871年に石渡四郎兵衛、石川長兵衛、川島勘左衛門、櫻井佐七という4人の村人によって始められた。当初の海面使用権は2万坪で品質も悪く、年間生産額は1万円にしかならなかったという。やがて漁場は17万4千余坪にまで拡張し、海苔採取営業組合が組織され、品質向上や販路拡大によって生産額は数十万円に増加した。海苔養殖は、揺らぎようのない地域の一大産業となったのである。
海苔養殖の華々しい発展を語るこの碑のすぐ脇に、1986年に川崎漁業協同組合とその組合員によって建てられた「海苔供養祭文碑」がある。技術の改良を重ね、大師海苔として全国に知れ渡るまでになった海苔養殖には、最盛期は500人を超える養殖業者が携わった。しかし、高度経済成長期になると河口周辺の埋め立て工事が進み、工場進出が顕著になる。やがて1971年に海域の埋め立てが決定したことで、同年9月、川崎漁業協同組合はついに漁業権の放棄をやむなく決意したのである。「これ時代の趨勢なりといえども凡そ永年海苔養殖の業務に従事せる人等にとって、その想い痛恨にして心情を察するに余りあり。いまここに曽って生業とせし豊かな海苔の精を招魂し、懇に供養の志を運ばるるは報恩のあらわれにして、まことに尊き浄業と謂つべし。」時代の流れと共に、地域を支えた一つの産業が終焉していくことの寂しさ、海に出られなくなった漁師の無念さ、そして何よりも長年暮らしを支えてくれた海苔への感謝。碑文の中には、さまざまな思いが込められているように感じる。
さらに碑文は次のように続く「願くは、本尊厄除弘法大師をはじめ奉り、守護の諸天善神、本日の功徳主・川崎漁業協同組合の各位をして、普く家連繁栄、子孫長久ならしめ給わんことを。」そして、最後には仏教の言葉とされる「一佛成道(いちぶつじょうどう) 観見法界(かんけんほっかい) 草木国土(そうもくこくど) 悉皆成佛(しっかいじょうぶつ)」、つまり、すべてのものの成仏を願う言葉で締めくくられている。
大森漁業組合跡地の「漁業記念」の碑

大森漁業組合跡地の「漁業記念」の碑

川崎大師に建つ二つの海苔養殖の石碑

川崎大師に建つ二つの海苔養殖の石碑

ものがたりを繋ぐ

高度経済成長期によって日本の経済は豊かになったが、沿岸部の大規模埋め立てによる環境の改変、数々の公害問題、一次産業の弱体化など、私たちは大きな代償を払ってもきた。これまで見てきた海苔養殖に関わる石碑にも、海苔養殖の長い歴史への誇りと、時代に抗えない悔しさが溢れている。これらの石碑は、自分たちが日々携わってきた海苔養殖の終焉を悼む、海苔養殖の供養碑なのではなかろうか。
おさかな供養碑は、それぞれの地域の漁業や暮らしの記憶を記録し、後世に伝えていこうという意思を持っている。供養碑が語るものがたりを、現代の私たちはどう受け止め、これからの未来にどう活かしていくことができるだろうか。(了)

※ 田口理恵 他、2011、「魚類の供養に関する研究」、東海大学海洋研究所研究報告第32号、pp53‐97

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