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オーシャンニューズレター

第542号(2023.03.05発行)

海洋の恵みより生まれた江戸から東京へのまちづくり

[KEYWORDS]水運/城下町/石船
(公財)笹川平和財団海洋政策研究所主任研究員◆黄 俊揚

「海洋国家日本」は、16世紀の安土桃山から江戸時代に、海や船を利用して物資を調達し、インフラ整備によって近世型の巨大城下町を築き上げた。
「川から海への扉(入り口)」を意味する「江戸」は貿易や物流などの経済活動が盛んに行われた海の都であった。
効率的な交通網、文化、ビジネス、活気に満ちた東京が近代都市へと歩みを進める背景には、江戸時代からの歴史的な都市計画が重要な役割を担っていたのである。

海洋国家日本のインフラ整備

「海洋国家日本」は、16世紀の安土桃山から江戸時代に、海や船を利用して物資を調達し、インフラ整備によって近世型の巨大城下町を築き上げた。「川から海への扉(入り口)」を意味する「江戸」は貿易や物流などの経済活動が盛んに行われた海の都であった。効率的な交通網、文化、ビジネス、活気に満ちた東京が近代都市へと歩みを進める背景には、江戸時代からの歴史的な都市計画が重要な役割を担っていたのである。
大阪城、熊本城、姫路城、名古屋城など近世の名城や城下町の建設は、すべて安土桃山時代(1568~1603)から江戸時代(1603~1868)までに本格的な石垣が築かれたことに始まる。それまで中世の「防御の砦」を目的とした城は、ほとんど土塁でできた山城であり、石垣はほとんど見られなかった。城の建設に必要な石材が大量に調達できない場合、墓石や灯籠、塔、石臼などの「転用石」が利用されることが多かった。時代が下るにつれ、城の役割は安土桃山時代の「豪華なショーケース」から、「統治」のための城下町建設へと移り変わっていく。

江戸は拡張可能なスパイラルな城下町

江戸城は戦国時代から徳川幕府への移行期に設計され、家康、秀忠、家光は1590年から1638年までの約50年間、天守と城下町の拡張工事を行い、拡張可能な渦卷型の城を完成させた。1603年の江戸開府で将軍となった家康は、「天下の府城整備」の名目で諸大名を動員し、「天下普請(公儀普請)」を通して城と都市を改造させた。江戸城築城の第一段階として手漕ぎ船の発着場となる運河を掘らせたことは、家康が当初から船による物資輸送で江戸を築こうと考えていたことを示している。江戸湊沿岸では大規模な運河の開削や潟の埋め立てが全国の大名によって行われたが、日本橋を起点に整備し、脇街道と接続し、江戸を中心とした水陸交通網を全国に循環させようという計画であった。大名屋敷や商業地の用地を確保するため、江戸城北東部の神田山を開削して日比谷入江を埋め立て、木材や石材などの物資を運び込む運河を建設した(図1)。日本橋もこの時に架けられた。江戸の町は、入江や川、丘陵が多い地形をうまく利用して、渦卷を描くようにスパイラル状に堀を延ばし、五街道と組み合わせて都市を形成し、物流が容易な「の」の字型の都市拡張計画が誕生した。江戸の人口は17世紀初期から18世紀初期の享保年間にかけて約15万人から100万人を超え、世界最大級の都市となった。この頃のロンドン、パリの人口は70万人に届かず、ウィーンは25万人程度であった。

■図1 江戸のまちづくり。埋め立て工事と海岸線の推定(筆者作成)

江戸城の石垣は、世界に誇れる建造物である。江戸・東京は、開府以来400年以上にわたって巨大都市であり続け、江戸城はその核として17世紀初頭に築かれた石垣を守り続けてきた。しかし、関東内陸部では石材が産出されないため、江戸城下町の大拡張の際、最も苦労したのが石材の調達と石垣の建設であった。江戸城の建設費用の8割は石の切り出しと運送に費やし、石積の費用は2割程度といわれている。石垣の石材は約120km離れた伊豆半島から3,000隻もの石船によって、一隻に百人持ち石2個を積み、月に2度、江戸と伊豆を往復していた(図2)。道路が未整備だったこともあり、輸送方法は海岸までの坂道を滑り降り、船で乗せることを唯一の交通手段とした。江戸城とその城下町を築くために伊豆半島から運ばれた60cm角の石材は約81万個、30年の歳月をかけて運ばれたという。幕末に建設された東京湾の6つの台場を含め、伊豆の石材は江戸の基盤を築き上げたといっても過言ではない。
また、現在の天守台に代表される白い花崗岩は、江戸城から500km以上離れた瀬戸内海の犬島(岡山県岡山市)から海路で運んできたものである。石材の採掘や運搬は困難を極め、例えば1606年5月、196隻の石船を含む数百隻の船が沈没・破損したとある。城や江戸のまちづくり工事は、低地を埋め立て、川と組み合わせた水路を作って物資の輸送路を確保したが、これらの土木工事には船も使われた。なぜなら百石(こく)の川船は、馬の125倍、千石(ごく)の海船は馬の1,250倍の量が輸送できるからである。船なしには江戸は成り立たず、江戸は船によって築かれたといっても過言ではない。御手伝普請で船舶による全国流通を経験したことで、石材や石製品の移動は、それまでの予想以上に長距離、大規模、大量移動するように変化した。

■図2 ユネスコ世界ジオパークとして正式に認定された伊豆半島にある室岩洞は、江戸時代から昭和にかけて操業していた採石場(左)、江戸城の水運網は今も堀に建てられた首都高速道路として交通の大動脈を担う(右)(筆者撮影)

全国的な水運網の形成と都市計画

徳川幕府の貿易制限により、長崎でのオランダ、清国、朝鮮、琉球を除く和船の海外渡航は途絶えたが、強力な統一政府のもと、国内の海運は急速に発展した。幕府は五街道をはじめとする主要街道を全国に整備し、宿駅を設けた。参勤交代の下に、幕府と諸藩の年貢米が西廻り、東廻り両航路によって膨大な人口をかかえる大坂・江戸という二大市場へ輸送されるとともに、大規模な土木事業に必要な大量な材木が各地に運ばれ、大坂・江戸を中心とする商品流通が活発になった。江戸時代には可能な限り水運が利用され、川と海の節点である河口には必ずといっていいほど大きな港が栄えた。20世紀に入り、当時の水運網の上に高速道路網が建設され、物流の大動脈を担い続けている。
日本の城下町は海運の発展の賜物である。これらの都市計画により、江戸をいくつもの自然災害のリスクから守ることにも成功し、運河は資源の物流と井戸水の供給システムとしても利用された。また、スパイラル状に都市構造を設計したことで、21世紀の現在に至るまで拡大し続けることを可能とした「未来志向型の設計」であったことも特筆すべきことである。これまで政治的な変遷や戦争による破壊によって損失を被ったにもかかわらず、文化的な保存や市民が親しみやすい歴史的遺産の環境を促進してきた経験とその戦略は、都市計画の全体的な政策立案の機能と枠組みにおいても有益である。この都市構造が江戸から東京の歴史的な発展の側面として注目され、何らかの形によって今後の都市づくりに最大限利用され、生かされてゆくことが望まれる。今後さらなる調査が進んでいくためにも、継続した学術的な注目と努力が必要であると考える。(了)

  1. 石(こく)は容量の単位で、1石は10斗=100升=約180リットル。米1石の重さは約140~150kg。

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