Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第536号(2022.12.05発行)

海底の堆積物から探る日本人の起源

[KEYWORDS] 縄文人/弥生人/水稲栽培
早稲田大学創造理工学部客員教授、東京大学名誉教授◆川幡穂高

海底の堆積物には、過去の気候・環境状態が記録されている。今回、筆者らは日本人の祖先が体験した環境記録を復元した。
この古気候・古環境学的データを人類学、考古学、歴史学、社会学、経済学などの知識と併せて解析した。
私たちの祖先の体験した大きな社会イベントは、極端な気候イベントを伴っているものが多かった。
現在の私たちは「極端な気候イベントの温暖化版」の真っ只中にいる。
私たちは、この難題を克服するためホモ・サピエンスの特徴である「知恵」を生み出し、行動することが求められる。

私たち日本人の究極の故郷はアフリカ

人類は生物学的には、ラテン語で「知恵のあるヒト」を意味するHomo sapiens(ホモ・サピエンス)と呼ばれる。その究極の祖先は、アフリカの大地に20万年前に誕生した。その一部が、約6万年前にエチオピアの隣のジブチから対岸のイエメンに舟で渡り、ユーラシア大陸を横断し、4万5千年前に極東に、3万7,500年前に日本に到着した。筆者らの研究によると、「出アフリカ」は数万年間に1度の湿潤気候に対応していた。その時期に海峡(当時11kmの幅)を渡った。
私たちの祖先は、どのような気候・環境を体験したのか。現代の「日本人」の遺伝子は、どのように引き継がれてきたのか。日本社会の進化は気候・環境に影響を受けてきたのか。これらの質問に答えるには、古気候・古環境学とともに、人類学、考古学、歴史学、社会学、経済学などの多分野の知識や解析が必要となる。筆者らの研究から出版した『気候変動と日本人20万年史』(筆者著、岩波書店、2022年)では、日本人の祖先が関係する日本列島以外の気候や生活を詳しく記述した。なぜなら、現代日本人の祖先のほぼ半分は、弥生時代の開始前には東アジア大陸に生活していたからである。

気候・環境の記録を海底堆積物より読み取る

地球の表面は降雨や風により毎年1mm程度削られる。削剝部分は最終的に海に運ばれ、海洋表層に棲息するプランクトンの遺骸とともに沈積して堆積物となる。この時、気候・環境状態が堆積物に記録される。祖先の体験した環境を復元するため、筆者らは、アフリカ東海岸、中国東海岸、日本列島周辺海域から柱状堆積物試料を採取した。
温度は物理・化学プロセスを支配する重要因子である。海洋表層に棲息するハプト藻が合成する「アルケノン」と呼ばれる有機化合物を分析すると、過去の海水温を0.3℃程度の誤差で復元できる。花粉や陸上植物由来の化合物を解析すると、陸域の環境を復元できる。祖先たちの食料調達は植生や動物相に依存し、気候・環境に左右されるため、これら海底堆積物の試料から各時代の環境を読み取ることとした。

寒冷気候災害と日本人の祖先

近年、遺伝子を用いた分子人類学が急速に進展している。Y染色体遺伝子は父親から息子に伝わる。日本人の9割を構成する3種類の代表的な遺伝子集団が[D]、[O1b]、[O2]系統である。縄文人固有とされる[D]系統は、現代日本人では41%、弥生・渡来系を表すとされる[O]系統は49%を占める。[O]系統は長江周辺に起源をもち水稲栽培を伝えた[O1b]系統(27%)、黄河文明を担った[O2]系統(22%)に分かれる。
三内丸山は世界遺産にも登録された代表的な縄文遺跡で1,700年間栄えた。縄文人は狩猟採集が生業だったと考えられてきたが、三内丸山ではクリ林を管理して、半栽培と呼ばれるほどの高生産を維持した。しかし4,200年前にはアルケノン水温の復元から気温は2.0℃下がり、寒冷気候災害を被ったことが判明した。クリ林は衰え遺跡は崩壊した。近年、現代日本人の遺伝子を解析することによって過去の人口変動を推定する画期的な方法が開発された。これによると、縄文人の人口はこの気候災害時にも減らなかった。このことから、人々は集落を放棄したが、周囲の森林に散らばり、狩猟採集の生活に戻り、生計を維持できたことが示唆された。
では縄文人以外の日本人の祖先はどこにいたのであろうか。弥生・渡来系統は別名「農耕東アジア人」と呼ばれ、当時は中国に暮らしていた。筆者らは長江河口沖から採用した試料を分析し、この気候災害時に急激な大寒冷化(3~4℃の降温)が頻発したことを見出した。三内丸山よりはるかに厳しい寒冷化が長江新石器文明の中断を含む大衰退の有力な原因であると指摘した。次に、彼らを代表する遺伝子集団の人口変動を推定した。すると、4,200年前の寒冷気候災害時に人口は極小を示し、縄文人の場合と異なり、中国では多くの人々が死亡してしまったことが示唆された。すなわち、現代日本人の遺伝子に、祖先が経験した異なる人口変動が記録されているのである。その背後にあるのは気候災害の厳しさの違いである。
さて、水稲栽培の開始で定義される弥生時代の開始は、従来は紀元前3世紀ごろからとされてきたが、現在では放射性炭素14年代測定法の多くのデータに支持され、紀元前10世紀前半と改訂されている。黄海では紀元前11世紀から10世紀にかけてアルケノンから推定される海水温は0.7℃急降下した。これと呼応するように中国の王朝は殷(商)から周に交代した。当時の主要都市は黄河流域に位置し、そこは[O2]系統の故郷であった。畑作が生業なので、彼らが弥生人となったのではない。寒冷乾燥化により農作物の生産は大打撃を受け、中国社会は動乱となり、民族の玉突き移動を促した可能性が高い。水稲栽培は約4,000年前には山東半島まで北上し、その担い手は[O2b]系統の子孫であった。そして、黄海での温度降下から半世紀もたたないうちに、北九州の菜畑遺跡で水稲を栽培する人々が現れた。この水稲を生業とする人が最初の弥生人である。

「新寒冷気候説」

過去2万年間にわたり、日本列島を対象として海水温を精密に復元した(図)。特に温度が1〜2℃程度下がり、それが数十年間以上継続するような「極端な寒冷期」が、数百年から1,500年に一度出現した。この大規模寒冷期は日本社会の変革期と時期がみごとに一致し、極端な気候は不可逆的な社会の変化をもたらし、社会の進化を促したと考えている。今回の研究は従来と比べて、高い年代精度、定量的な気温復元が特徴であり、社会の大変革との呼応関係が明瞭に見出されたので「新寒冷気候説」を提唱したい。海洋堆積物を用いた古気候・古環境研究が今後発展し、統一的見解に達するには、他分野との協力が必須と考えている。
現代は寒冷期でなく、超温暖期に突入しようとしている。方向は逆だが、現在の気温は過去3千年間に祖先が経験した範囲を超えており、これは「極端な気候イベントの温暖化版」といえる。その変化速度は自然の変化速度の10~100倍に達している。超温暖化と最速の環境変化速度が、現代の気候変動の特徴を表すキーワードである。
ホモ・サピエンスはアフリカで誕生し、自らの知恵で文明を発達させた。過度の文明化に飲み込まれないよう、今こそ「知恵のある人」を実践することが求められる。(了)

■図 過去2万年間の温度復元と日本社会の十大事変。①世界最古の矢尻・世界最古級の土器、②北海道での人の南下、③三内丸山発展開始、④三内丸山崩壊、⑤弥生人の日本への移住、⑥弥生前/中期(中国春秋戦国時代)、⑦弥生/古墳社会境界(倭国大乱・黄巾の乱)、⑧古墳/朝廷貴族政治境界、⑨貴族/武家政治境界、⑩武家政治/近代境界。(青色帯は寒冷期。左と右で温度の範囲が異なることに注意)

  1. アルケノン水温=植物プランクトン円石藻が生合成する有機化合物であるアルケノンの堆積物中の不飽和度を用いて、復元した過去の表層水温。

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