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オーシャンニューズレター

第518号(2022.03.05発行)

縄文海進と貝塚

[KEYWORDS] 海水準変動/東京湾沿岸域/貝塚分布
千葉県立中央博物館歴史学研究科上席研究員◆田邉由美子

神奈川県横須賀市から千葉県富津市に至る東京湾沿岸域は、日本一の貝塚密集地帯である。
その中には、加曽利貝塚(千葉市)のように全国一の規模を持つものもある。
この地域に多くの、そして大型の貝塚が形成された理由には、地球規模の気候変動・変化がかかわっている。

縄文時代の東京湾沿岸域の海水準変動

神奈川県横須賀市から千葉県富津市に至る東京湾沿岸域は、日本一の貝塚密集地帯である。その中には、加曽利貝塚(千葉市)のように全国一の規模を持つものもある。この地域に多くの、そして大型の貝塚が形成された理由には、地球規模の気候変動・変化がかかわっている。縄文時代(約1万6,500年前~2,300年前)の東京湾沿岸域の海水準変動を、研究成果(小杉、1989他)を中心に見てみよう。
更新世最寒冷期の平均気温は現在より5℃以上低く、海水面はおよそ120mも低下して東京湾はほぼ全域が陸化していた。1万5,000年前頃からの気温上昇に伴い、海水面も上昇し始める。1万年~9,000年前頃、海水面は-40~-35mにあったが、9,000年前頃から急上昇し、7,000年前頃には現海水面に達するとともに、海域は急速に拡大した(有楽町海進)。この海進によって、現在の東京湾の北方に奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されたが、干潟は全般に未発達であった。6,500年前頃から、海水面は+2~3mの高位で安定し、この状態は5,300年前まで続く。海は関東平野の奥、栃木県栃木市藤岡町付近まで入り込み、奥東京湾、現東京湾域の各地で干潟の形成が始まった。
5,300年前頃から海水面は低下へと転じ、4,500年前には海水面が0~+1mとなり、奥東京湾奥部域は淡水化した。この海退では、800年間に40km(50m/年)も海岸線が動いた計算となり、干潟はいっそう拡大した。一時的な停止を経て3,500年前頃に再び海水面は低下し、1,800年前頃までには-1~0mになった。この海退により奥東京湾は消滅し、その後も上昇と低下を繰り返して現海水面に至った。

海水準変動と貝塚の形成

この地域において、海水準変動と貝塚の形成との間には、明瞭な相関が認められることを樋泉岳二(1999)が指摘している。
縄文時代草創期(約1万6,500年~1万年前)は有楽町海進以前であり、この時期の貝塚は現在のところ見つかっていない。これは、その後の海進によって遺跡自体が水没・消滅している可能性が高いためである。縄文時代早期(約1万年~6,000年前)前半は、有楽町海進によって海域が拡大していく時期にあたり、貝塚の形成が始まる。この地域最古といわれる夏島貝塚(神奈川県横須賀市)は干潟に生息するマガキとハイガイを主体とし、クロダイ、マゴチ、スズキ、ハモなどの骨が出土した。骨製釣針も出土しており、既にこの時期に高度な漁撈技術があったことが窺える。東京湾東岸には汽水性のヤマトシジミを主体とする取掛西貝塚(千葉県船橋市)が形成され、クロダイ属、ボラ科、ニシン科、コイ科の魚骨が出土し、海水から淡水に至る広い範囲で漁撈活動が行われていた。縄文時代早期後半になると貝塚数は増加するが、数は未だ少ない。
縄文時代前期(約6,000年~5,000年前)前半は海水面が高位安定する時期にあたり、規模が小さい貝塚がほとんどではあるものの急増する。前期後半からは海退が始まり、後退する海岸線を追うように貝塚の分布が移動する。前期最終末から縄文時代中期(約5,000年~4,000年前)初頭、貝塚は一時的に激減するが、中期後半に海退が一時的に停止した際には貝塚の形成が再び活発化した。東京湾東岸はハマグリ、イボキサゴを主体とする貝塚が密集し、加曽利貝塚など長期間にわたって形成された大型貝塚が出現する。加曽利貝塚では北貝塚と呼ばれる直径が約140m、厚さが約2mもある環状の貝層が形成され、大規模な集落が営まれた。
縄文時代後期(約4,000年~3,000年前)前半は再び海退が一時停止し、いっそう拡大した干潟に対応するように貝塚は東京湾沿岸一帯にまんべんなく分布して増加し、規模も拡大した。貝塚文化の最盛期である。加曽利貝塚では南貝塚と呼ばれる長軸約190mで馬蹄形をした貝層が形成され、中期の北貝塚以上の規模となった。しかし、後期後半以降はさらなる海退で貝塚は減少、規模は縮小し、縄文時代晩期(約3,000年~2,300年前)の中頃、東京湾沿岸域では貝塚は消滅した。

■東京湾と貝塚分布の変遷(小杉1989、樋泉1999、春日部市教育委員会2019他を基に作成)

縄文時代のなわばり

赤澤威と小宮孟(1991)は、水産資源の地理的な調達範囲(遺跡テリトリー)を、アフリカで移動生活をする狩猟採集民と定住農民のモデルを参考に、集落から半径約5km、歩行時間に換算して片道約1時間の範囲と推定した。
これを縄文時代後期の加曽利貝塚にあてはめると、半径5km内には台門、花輪、矢作、多部田などの貝塚が密集し、テリトリーが重複しているように見える。樋泉岳二(1999)は、潮回りや干潮の時間帯などによる制限が大きいにもかかわらず貝塚が密集して存在できたのは、当時、干潟の利用や資源管理等に関する一定のルールが存在したからであるとした。貝塚出土の貝殻を調べると、未成熟貝に対する捕獲制限などの配慮があったことがわかっており、このような調整も地域社会の結合を促す要因のひとつになっていたと推測している。
東京湾沿岸域に大型貝塚が密集して存在し得たのは、地球規模の気候変動・変化によって引き起こされた大きな海進と海退によって、この地域に相当に豊かな環境が育まれたことによるのは間違いない。それに加え、人々が資源管理等に関するルールを共有できるような社会を作り上げたこともまた、重要な要因であったと思われる。(了)

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