Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第518号(2022.03.05発行)

オホーツク海・親潮域の生物生産と気候変動

[KEYWORDS] アムール・オホーツクシステム/鉄の循環/アムール川流域
名古屋大学大学院環境学研究科教授◆中塚 武

オホーツク海と親潮域の単位面積当たりの生物生産力は世界最大である。
この恵みは海洋の物質循環がもたらし、さらに周辺陸域から供給される鉄の存在に支えられている。しかし、鉄の供給源となっているアムール川流域の湿地が減少していることから、親潮域の生物生産にも重大な影響を与える可能性がある。

オホーツク海と親潮域の高い生物生産を支えるもの

オホーツク海と親潮域の単位面積当たりの生物生産力は世界最大であるが、それには二つの理由がある。一つは海洋の物理的循環、もう一つは周辺陸域から供給される鉄の存在である。オホーツク海と親潮域を含む北部北太平洋海域は、北大西洋から千年以上をかけて流れてくる深層水大循環の終着点に位置しており、その深層には世界を巡る間に沈降粒子が落下して再生した大量の栄養元素が蓄積している。そしてこの海域では冬季に大陸からの寒気により表面水が冷却されることで活発な海水の鉛直対流が起きるので、毎年大量の栄養元素が深層から表層に上がってくる。
さらにオホーツク海や親潮域の中層には、植物プランクトンによる光合成に必要だが酸化的な海水には溶けにくい鉄が大量に含まれている(図1)。この中層水はオホーツク海の北西部大陸棚で海水が凍る過程で氷から排出された高塩分水(ブライン水)を起源とし、北太平洋中層水として遠く北米西岸にまで運ばれていく水塊である。その中層水が、表層水の生物による鉄の吸着除去の影響を回避しながら鉄を運んでいたのである。さらにその背景にはオホーツク海北西部に注ぐアムール川の存在があった。
アムール川には鉄を大量に流出させる重要な二つの特徴がある。一つは河川周辺の広大な湿地、もう一つが流域の大部分を占める広大な森林である。鉄は酸化的な環境下では酸素と反応して三価の酸化鉄(いわゆる赤さび)になるため海水や地表水には溶けにくいが、酸素が欠乏した還元的な水の中では二価の鉄として溶解することが知られている。湿地の地下水は通常酸欠状態にあるので土壌から大量の鉄が溶けだしており、それがアムール川の支流や本流に染み出してくる。河川水の中には森林土壌から溶け出した高分子の溶存有機物である腐植物質が大量に含まれていて、鉄の一部は腐植物質と結合することで酸化による沈殿をまぬがれ、最終的に河口まで到達する。
河口で海水と触れることで一旦海底に沈殿した鉄は、オホーツク海北西部大陸棚の強い潮汐のためにその場に堆積できず底層水中に分散するが、そこには冬季に海水が凍結した際に排出される高密度水が滞留しており、鉄の微粒子を含む冷たく濁った底層水はやがて大陸棚からオホーツク海の海盆部の中層に滑り落ち、さらにサハリン東部を南に流れる東サハリン海流に乗って、オホーツク海南部、そして親潮域まで到達する。オホーツク海から太平洋の中層に鉄が流出する際には、千島列島の海峡部で上下方向に激しく攪拌されて、その一部は表層に到達して植物プランクトンに届けられる(図2)。堆積物コアの解析からはこうした鉄の輸送システムが長年の海洋環境の変遷の結果として生まれたことが分かっている。

■図1 オホーツク海の北西部大陸棚から千島列島(ブッソル海峡)を経て西太平洋(東経155度線)の亜熱帯海域に至る観測線上における溶存鉄(μM)の濃度分布(Nishioka et al. 2013)。

オホーツク海・親潮域の生物生産を毀損するもの

アムール川流域で近年起きている、この鉄の流れを毀損する可能性がある重大な事態に、湿地の改変がある。特にアムール川の中国側に広がる三江平原では1980年代から全域で湿地の水田への転換が進み、中国有数の穀倉地帯となったが、その過程で湿地から地下水が抜き取られた。アムール川の河川水中に含まれる豊富な鉄はもともと湿地から染み出してくるものなので、流域から湿地帯がなくなれば、オホーツク海を介して親潮域の生物生産にも重大な影響を与える可能性がある。河川と海流を通した鉄の循環による大陸と外洋の巨大な生態系の結びつきを、今後とも注視していく必要がある。
グローバルな地球環境の問題の中で、この鉄の流れに影響する最も重大なプロセスのひとつが、地球温暖化である。オホーツク海中層での鉄の輸送は、北西部大陸棚での海水の凍結に伴うブライン水の排出によって支えられている。近年の温暖化は隣接陸域の気温を急速に上昇させ、流氷の形成量を大幅に減少させてきている。オホーツク海北西部での流氷形成が止まれば、中層水の循環は止まり、親潮域の高い生物生産力を支えるアムール川起源の鉄の供給も止まってしまう。世界最大の海のコモンズである親潮域は、リージョナルな生業の変化と共に、温室効果ガスの排出というグローバルな人間活動によっても、大きな危機に晒されている。

■図2 アムール川流域の鉄が親潮域の生物生産を支えるメカニズムの全貌(アムール・オホーツクシステム)。

コモンズを守るために

この鉄の流れは一方通行であり、上流と下流の間には明らかに非対称性があった。つまり、中国の三江平原における湿地の水田への改変が、中国の農業生産に大きく貢献する一方で、日本の漁業生産に悪影響を与える可能性があったとしても、そのことに中国の人々が心を痛めなければならない理由はなかった。しかし現在、親潮域の漁業資源は日本だけでなく中国や韓国を含めた東アジアの国々の人々にとって共通の貴重な食糧となり、その保全は北海道や三陸の漁業者だけの問題ではなくなりつつある。
「オホーツク海と親潮域」という漁業資源の豊かな海のコモンズを持続可能な形で維持していくためには、さまざまな空間スケールに居住するさまざまなステークホルダーによる、多面的な協力が不可欠である。この世界最大の海のコモンズを守るためには、「乱獲の防止」という現場の課題から、「湿地の保全」という遠隔地の課題、そして「温暖化の抑制」というグローバルな課題や、「水産物の持続的消費」という人々の食生活上の課題までが、複雑に絡み合っている。
しかし当海域は、欧米各国の人々から隔絶されてきたので、依然として「知られざるコモンズ」である。それゆえ、この地域・海域からの発信を続けていくことが、多様性と包摂性を重視するSDGsの理念の実現にも大きく貢献することになると信じている。(了)

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