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【Ocean Newsletter】バックナンバー

第503号(2021.7.20 発行)

「豊饒の海」を目指して~日本工学アカデミー「海洋テロワール」提言~

[KEYWORDS]海洋テロワール/豊饒の海/海の民主化
東京大学総長、(公社)日本工学アカデミー「海洋研究の戦略的推進プロジェクト」リーダー◆藤井輝夫

地球に生きる私たちの共有資源である海を持続可能な仕方でこれからも利用していくために必要な考え方はどういうものか。
(公社)日本工学アカデミーではこのような課題認識のもと、2021年3月に「海洋テロワール」提言をまとめた。
同提言の理念に基づく海の将来像である「豊穣の海」について解説するとともに、人と自然が持続可能な共生を試み、
そこから高い付加価値を生みだすために必要な技術開発の考え方について紹介する。

「海洋テロワール」提言

私たちがこれまでその恵みを享受してきた海洋は、地球温暖化やプラスチックを始めとする廃棄物の流入による環境の劣化、日本では漁業就業者の減少などで、私たちとの健全な共存が危ぶまれている。一方で、デジタル技術を中心とする現代テクノロジーの進展により、私たちの生活を「量」のみならず「質」から変える「Society 5.0」の社会が目前に迫っている。地球に生きる私たちの共有資源である海を持続可能な仕方でこれからも利用していくために、現代の、そして将来のテクノロジーは何ができるのか。それをこの社会に実装し、豊かで健やかな海を実現していくために必要な考え方はどういうものか。このような課題認識のもと、(公社)日本工学アカデミーでの初となる海洋分野の提言プロジェクトでは、2017年より検討を開始し、その基礎となるメッセージを2018年10月に作成した。そして、これに基づく5つの WG(ワーキンググループ)による各課題の検討を経て、多くの海洋関係者の協力をいただきながら2021年3月に「海洋テロワール」提言をまとめた。本誌の論考※1に端を発する新しい理念である「海洋テロワール」を議論の出発点に据え、柱となる考え方を整理し、その実現のために必要な技術の見通しを提言では示した。

「海の民主化」と「豊饒の海」

低コストで構築・運用ができる市民参加型の海洋観測システム開発を目指す、東京大学生産技術研究所のOMNIプロジェクトのメンバー(神奈川県平塚での実地テストに際して撮影、中央が筆者)

フランスのワイン生産に源をもつテロワールは、気候や土壌などの自然環境、その土地、その畑で伝統的に続いてきたワインの製造法など、その地域の自然と文化、社会を統合し、そこに価値を認める理念である。畑はブドウを「収奪」する場ではなく、人と自然が持続可能な共生を試み、そこから高い付加価値を生みだすテロワールのアクターである。
その海洋版ともいえる「海洋テロワール」もまた、人々の暮らしや文化と海域の生産力を持続可能な形で統合する理念である。その際、経験知、暗黙知を前提としたテロワールとは違い、市民だれもが意思決定に参加できる民主化された開かれた場とした。そこに関係するすべての人々に参画を求め、自分事として共に意思決定に臨むことを意図したものである。
「海洋テロワール」を実現するためには、高度なエビデンスに基づく海洋活動のための基盤構築としての「海洋データ・情報の共有」、このデータ・情報を媒介に海洋空間と市民を繋ぐことで海洋の自分事化を促す「海洋観測の民主化」、海の恵みを循環型生産システムにより創造する「自然から収奪しないシステム」、そして海洋の「完全なデジタル化、リモート化、自動化」の4つの考え方で必要な技術開発を進める必要がある。
具体的には、現実空間における観測・調査能力の強化と、サイバー空間におけるデータの蓄積・分析能力の強化を統合的に推進することが必要となる。また、気候変動問題への対応の目標として掲げられるゼロエミッションと、持続可能性を追求する自然から収奪しない循環システムの構築が重要課題と考えられる。特に後者は、海の恵みを得るための中核的取り組みであり、データに基づく生態系の高度な状況把握と管理技術、高付加価値な水産物創造技術等を組み合わせた未来型の水産システムの構築を目指すものである。
提言では、「海洋テロワール」の理念に基づいて実現する海の将来像を「豊饒の海」と名付けた。デジタル技術を始めとする新たなテクノロジーが「豊饒の海」を作り出す。そして、その象徴として、環境への負荷を極限まで減らす次世代型の養魚施設「イノベアクアファーム」と、沿岸設置型・沖合設置型の「洋上都市」を提示した。前者は、従来の狩猟型の水産業から脱却して、豊かな生物多様性を維持しながら、高付加価値の水産物を持続的に生産する未来型の海洋生態系の創造拠点である。また後者は、「海洋テロワール」を実現するためのベースキャンプとして、「豊穣の海」を支える活動拠点であり、地球環境に優しく、自然災害に強いという特色を生かして、生態系と都市環境の共生と再生を促進する。

沿岸設置型「洋上都市」:Plug and Play FLOAT(左)と、沖合設置型「洋上都市」Integrated Ecofriendly FLOAT(右)のイメージ

海洋テロワールの実現に向けて

この提言は、工学系、理学系、水産学系のメンバーが中心となってまとめた。私たちの「イノベアクアファーム」や「洋上都市」の構想を実現するには、ビジネスとしての可能性や社会学的な検討も必要になる。さらには、そのような新たな水産業を、そして洋上の街をつくることについて社会一般の共感的理解を得ることが不可欠である。
その理念を実現するには新たな発想と技術が必要であり、それを支える人材を意識的に育てていくことも欠かせない。キャリアパスを確立しつつ、将来の海洋産業を担う多様な人材を育てるためには、初等中等教育段階から高等教育・社会人教育に至るまで、海を題材とした体系的な教育パッケージを提供していくとともに、異分野との接続を容易にする海洋教育による人材の「マリナイゼーション」(Marinization:海洋化)の視点が重要となる。
世界では、環境(E)、社会(S)、ガバナンス(G)の観点から投資先を選別するESG投資のうねりが訪れている。また、地球規模の環境問題や、食料問題・人口問題を始めとする社会的課題を解決することを重視する取り組みの活発化、そして、こうした問題の解決に海の科学を役立てる「国連海洋科学の10年」が2021年より開始したことも、海洋テロワールの実現と整合的であり、また追い風ともなりうる。
提言は、公表をもってその使命を終えるわけではない。さらに広い議論の呼び水として活用していくことが必要であり、この先の社会の変化にも、「海洋テロワール」の理念を守りつつ柔軟に対応していくことが欠かせない。(了)

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