Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第503号(2021.07.20発行)

丹後の海と神仏

[KEYWORDS] 沿岸域/伝説/民俗
NPO法人TEAM旦波◆小山元孝

京都府北部の丹後地方。ここでは海を介した交流の痕跡をいたるところに見ることができる。
遺跡や古墳からは、その証拠ともいえる出土品が数多く発見されている。
こうした痕跡は古代だけのものでもなく、またモノだけにも留まらない。時代が変わっても、神仏をめぐる説話や祭礼といったなかにもその痕跡を見出すことができる。その一端を紹介したい。

丹後と海

京都府の北部、丹後と呼ばれるこの地域には海を介した交流の痕跡をいたるところで見ることができる。弥生時代の巨大墳墓から中国製のガラスが出土し、魏の年号である青龍3年(235年)の銘を持つ銅鏡が古墳から出土するなど例を挙げると枚挙にいとまない。また、『丹後国風土記』(奈良時代)逸文に記された浦島子や天橋立に関する説話は、古代丹後の人々と海との関係を物語るものといえる。こうした関係は、時代が変わっても継続している。例えば山椒大夫のような中世以降の説話もその一つといえる。東北から京へと旅立つ安寿と厨子王一行は、「越後国直井の浦(新潟県上越市)」から京に向かおうとしたところ、人買いに騙され、姉弟は丹後国由良の山椒大夫のもとに売られるという筋書きである。他にも出羽三山を開山した蜂子皇子(はちこのおうじ)は丹後国から東北に向かったという伝説がある。いずれも日本海をめぐる海洋交通があってこそ成立した説話であると考えられる。このように丹後はモノだけでなく、童話や説話の部分でも海との縁は切っても切れない関係にある。過去から現代に至る丹後の人々と海との関係を、神仏を通じて紹介していきたい。

漂着する神仏

京都府京丹後市丹後町の九品寺は通称「穴文殊」と呼ばれ、文殊菩薩を本尊としている。近世の地誌『丹後州宮津府志』(1761年)には、堂の北にある岩穴からその名が付けられたとある。文殊菩薩が中国から丹後半島の最北端である経ヶ岬に渡り、その後この岩穴に留まり、さらに天橋立に移ったとされる。これは天橋立にある智恩寺(京都府宮津市)の『九世戸縁起』(室町時代)にも記されていることで、中世以来の伝承が地元でも伝えられていることがわかる。経ヶ岬は経巻を立てた姿、また開いた姿に似た岩があることから、その名が付けられたとされ、この経巻に似た岩は文殊菩薩が説法をした際の経蔵であったと伝えられている。
ほかにも隠岐から漂着したと伝えられる神仏が丹後半島の西側には多くある。江戸の寛永年間(1624~1644年)に薬師如来坐像を隠岐から京都へ修復のために船で運搬していたところ、途中で遭難し広通寺(京丹後市網野町)の近くの海岸に漂着したという。いったん寺に安置し海が穏やかになった10日後に改めて運搬しようとしたところ、また海が荒れてしまい運び出すことができず、そのまま安置されることになったという。現在、寺ではその薬師如来坐像が本尊として祀られている。
さらに竹野神社(京丹後市丹後町)では江戸時代に隠岐から神馬が奉納され、馬が亡くなってもさらに次の馬が奉納され続けたそうだ。奉納する際は「丹後国竹野郡斎宮」という札を馬に付けて送られてきたという。神馬の寄附状が残されていたというが、そのものは残存せず桐箱のみが残っていたそうだ。近代に入ってからも丹後から隠岐へ出漁するものもあり、船舶の往来が多かったと伝えられている。そもそも竹野神社は航海者の崇敬が厚く、隠岐の船舶が入港した際には必ず参拝されたそうだ。

海の祭礼

浅茂川水無月祭*、神輿が海に入り祠を回る(*2021年は開催中止)

丹後の海岸沿いでは、特に夏祭りは海との関係が深い。福田川の河口、京丹後市網野町浅茂川の水無月神社の例祭は毎年7月30日に開催され、通称「かわっそさん」と呼ばれている。これは河口で執り行われる祭りであることから、「川裾」が転訛したものと思われる。新型コロナウイルス感染症が流行する以前は、露店が並び、夜は花火が打ち上げられるなど地元の風物詩として名高いものであった。しかし、この祭礼の見どころはそれだけではない。地区の若手を中心に神輿渡御が執り行われ、その途中で八丁浜と呼ばれる砂浜から海へと神輿が入っていくのである。筆者が取材をしたのは午後の炎天下真っ盛りの時間帯。太さ約10センチ、長さが1メートルほどの木の棒の先に、直径20センチほどの鈴が付けられた「トッケツ」と呼ばれる鳴り物によって先導され、時折ガラガラと鳴らされ神輿が近づいていることを知らせる。そして砂浜から一気に海に入っていき、海上に設置された小さな祠をゆっくりと回っていくのだ。これは川下にたまった穢れを祓うものと考えられる。祭礼の日は夏休み期間中でもあり、周囲には海水浴客もたくさんいるのだが、その日は「神様が海に入るので、泳いではいけない」と言われた記憶がある。勇壮さと厳粛さを今に伝える貴重な祭礼と言えよう。

岩の祭礼

立岩を前にする東氏一同

続いて紹介したいのは「かわそそ」祭りである。前述の水無月祭と語源は同様で、竹野川の河口付近(京丹後市丹後町間人)で行われるため「川裾」が元になっていると思われる。名称のルーツは水無月祭と同じであるが、祭礼自体は随分と異なっている。この祭りは、聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が難を逃れて当地に来た際に、付き従った家来の末裔を名乗る東一族たちによって行われる。地名の「間人(たいざ)」はこの間人皇女にまつわるものと伝えられ、諸説あるが皇女が退座したことから「たいざ」と呼ばれるようになったと伝えられている。さて祭礼は、竹野川河口付近の巨岩「立岩」に白装束を身にまとった男衆が集まり、代表者から御幣を受け取る。岩の中央付近から登りはじめ、頂上で御幣を捧げ、航海の安全や豊漁を祈願して下りてくる。その後、近くの小祠にもどり神事を執り行い一連の行事は終了する。
このように丹後には人々と海との関係を示す説話が身近に存在し、また海辺で行われる祭礼がいまも受け継がれている。しかし、現在ではそもそも人口減少により祭礼の維持が困難なところに、新型コロナウイルス感染症の影響が加わることになり、厳しい状況が続いている。関係者で神事のみを執り行い規模を縮小することもある一方で、いったんは休止するものの復活するための準備をしている地域があるのも確かだ。丹後地方の文化伝統を守り引き継ぐ、先を見据えた行動が功を奏するのを期待したい。(了)

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