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第489号(2020.12.20 発行)

蝦夷地における感染症対策 〜19世紀前半の天然痘とアイヌの関わり〜

[KEYWORDS]感染症対策/アイヌ/松前藩
国立アイヌ民族博物館 文化庁企画調整課調査官◆永野正宏

19世紀前半、江戸時代後期の蝦夷地では、アイヌ人口が減少しており、その原因は海の交易によって船とともに運ばれてきた天然痘が大流行したためだといわれている。
アイヌは天然痘などの感染症の流行時には山に逃げるという習慣をもっていた。
蝦夷地における感染拡大を防ぐために松前藩と江戸幕府が行っていた対策をここでは紹介したい。
新型コロナウイルスの感染拡大が続く今日の日本にとって、当時の感染対策を知ることは重要であると考える。

天然痘流行とアイヌの対応

19世紀前半、江戸時代後期はアイヌ人口が減少した時期といわれている。たとえば、和人(日本語を母語とする人々)の居住地域に近かったヤムクシナイ(現、八雲町ほか)では、1822(文政5)年のアイヌ人口が504人に対して、1854(安政元)年は374人と74.2%に減少している。その要因の一つに天然痘の流行が指摘されている。和人との交流で漁民や物資が船で運ばれたことはいうまでもなく、その中に感染症である天然痘も含まれていたことは想像に難くない。天然痘に、当事者であるアイヌと、蝦夷地(明治以前における北海道、千島、サハリンの総称)に勢力を広げていた松前藩や江戸幕府がどう対峙していたのか明らかにすることは、現代の感染症対策にとっても重要である。
蝦夷地での天然痘流行の古い記録は、1669(寛文9)年、オシャマンベ(現、長万部町)におけるものである。この事例は、和人地に赴いたアイヌが天然痘を発症したものだが、このように天然痘が蝦夷地に持ち込まれることはありうることだった。アイヌと和人の交流が密接になっていくことと並行して、和人のもたらした天然痘が蝦夷地の奥へと拡がっていったと考えられる。
天然痘の流行に対して、アイヌは山に避難する慣習によって対処していた。アイヌは天然痘などの感染症流行時には、病人を置いて「深山谷」へ避難し、感染から免れていたといえる。1800(寛政12)年の事例では、山へ避難するにあたり、「役土人」(アイヌの役職者を指す)から幕府役人への「申立」があり、役人は「役土人」等の意向に任せたとある。このことから、寛政年間の山への避難はアイヌによる主体的な行動であったといえよう。

松前藩による天然痘流行対策

1800(寛政12)年、松前藩は天然痘流行に対する「触れ」を出した。和人地である江差での流行を受けて、天然痘未発症(発疹の出ていない者)の和人の蝦夷地への差遣(さけん)禁止ならびに蝦夷地からの強制退去と、運上屋(交易拠点)における天然痘を発症したアイヌの介抱、および流行中に人が多いところへのアイヌの移動を禁止するというものであった。つまり、藩によって天然痘に罹患したアイヌへの手当と、和人地と蝦夷地の境を越えての天然痘感染拡大防止対策がとられていたことは明らかといえる。
1845(弘化2)年の天然痘流行対策では、同居家族に天然痘を発症中の者または完治後日が浅い者がいる場合、東蝦夷地(北海道太平洋側と千島)へ通行したり、小舟を使った荷駄運搬等で入ってはいけないこと、さらに西蝦夷地(北海道日本海側およびオホーツク海側とサハリン)や東蝦夷地のタルマイ(現、苫小牧市)へ漁場労働等で出稼ぎに行く際に、天然痘未発症者がいる場合は差し戻すよう藩役人から指示が出ている。
東蝦夷地から西蝦夷地へ出稼ぎに行く際に、天然痘未発症者を連れている場合は差し止めて、ヤムクシナイでは陸路で、オシャマンベから東部では陸路ではなく船で鷲ノ木(現、森町)、落部(おとしべ 現、八雲町)付近へ送還するように藩役人が指示している。また、西蝦夷地から東蝦夷地へ行く者の対策としては、天然痘発症中の者、完治していても顔面に変色が見られる者、天然痘未発症者を連れている者はクロマツナイ(現、黒松内町)で差し止めて出発地へ追い返し、ヤムクシナイの勤番所へ届け出るよう藩役人が指示している。
蝦夷地に天然痘未発症の和人がいた場合は、蝦夷地から退去させるよう松前藩から藩役人に対して指示が出ていた。ただし、退去の方法として、陸路だと通行する地域での感染拡大を懸念したのか、船で退去するよう申し伝えている。

■図 和人地および「東西蝦夷地」(南西部)地図
出典:「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『 角川日本地名大辞典1 北海道 上巻』角川書店(1987)、
山田秀三『北海道の地名アイヌ語地名の研究別巻』草風館(2000)

幕府による流行対策

1817(文化14)年の天然痘の流行により、イシカリ(現、石狩市ほか)でのアイヌの労働人口が激減したため、当地の場所請負人からの嘆願により、幕府への運上金が減額されることとなった。事態を重くみた松前奉行が、幕府に指示を仰いだことを受けて、幕閣から元松前奉行で勘定奉行の村垣定行に下問が発せられた。それへの回答が、1818(文政元)年10月に、村垣から若年寄堀田正敦へ天然痘流行時の心得に関する意見として進達(しんたつ)された。その中で村垣は、それまで数百人規模の死者が出なかった理由として、アイヌの山へ避難する慣習を挙げ、感染拡大を防ぐ方法として、未発症アイヌの山への避難を献策した。翌月、この献策は、天然痘流行時におけるアイヌの取扱い方として全ての場所請負人へ申し渡すよう老中から松前奉行に対して指示された。少なくともヨイチ(現、余市町)では、天然痘流行時に未発症アイヌを山へ避難させるという取扱いが1855年まで続いていたことが史料から確認できる。

感染拡大防止対策と海

近世期の蝦夷地において、物の輸送には水運・海運に頼るところが大きかった。蝦夷地内では川を使った輸送もあったが、本州以南から松前や箱館を経て物資が運ばれるときは海運を利用していた。海運は感染症も運んでいた可能性を想像させるのが、1845(弘化2)年の天然痘流行時に、松前藩士が各「場所」における、箱館からの船に天然痘未発症者が乗り組んでいないかの調査であったといえる。蝦夷地内に未発症者の和人がいた場合や、蝦夷地内で天然痘により死亡した和人の遺品は、人との接触を避けるため船を使って蝦夷地から離された。また、蝦夷地勤番の松前藩士の荷物や一部の交易品は、当時陸路の場合にはアイヌが使役されていたためと考えられるが、天然痘との接触を避けるため、船を使って送るよう指示された。
そして、1857(安政4)年にアムール川下流域で天然痘が流行した際に、間宮海峡を挟んだサハリンへ避難する者があった記録が残っており、避難者が確認された東海岸タライカ付近では数カ月後に天然痘流行を確認した旨の記録が残っている。島々に住まう人にとって、海は、感染症を運んでくる道であるが、同時に感染した者たちを島から運び出す道、感染拡大防止にも役立ったといえよう。
本稿の執筆時点では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界を席巻しているが、約160年より前の日本北方でも似たような出来事や対策があったといってよいだろう。天然痘対策が種痘(天然痘の予防接種)の段階を迎えたように、コロナ対策も早く次の段階へ移り、終息してほしいものである。(了)

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