Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第477号(2020.06.20発行)

サケの母川回帰と海水温の変動〜サケの恋に与える影響〜

[KEYWORDS]本能行動/遺伝子プログラム/視床下部
北海道大学名誉教授、北海道サケネットワーク顧問◆浦野明央

日本系のシロザケは、母川から海に降りるとオホーツク海を経てベーリング海に達する。
その後の何年かを、夏はベーリング海、冬はアラスカ湾で過ごし成長するが、成熟を迎える年には母川に回帰する。
本能行動あるいは内分泌機能の中枢とされる視床下部は、この行動の基盤となる分子レベルの制御に重要であるが、黒潮の強勢下では母川回帰が妨げられ、神経系や内分泌系の機能に変調が生ずる。

日本系シロザケの回遊経路

数年前のこと、小6と中3の生徒が海をどれだけ知っているかという調査が行われた※1。驚くことに、シロザケ(以下サケ)が「川で生まれ、北洋で成長し、産卵のため川に戻る」ことを知っていた生徒が、小6で1/4、中3で1/3だけだった。そこで、小・中・高の理科の教科書100冊ほどを精査したのだが、「日本の川で生まれたサケが北洋で成長し、産卵のために生まれた川(母川)に戻る」ことを記しているものはなかった。サケ研究者による初等・中等教育へのアウトリーチが不十分だったせいかもしれない。
これぞというサケの回遊経路(図1)が示されたのは20年前だった(浦和茂彦、『さけ・ます資源管理センターニュース』No.5 2000)。秋から冬にかけ川で生まれたサケ稚魚は、翌春に降海、北海道沿岸に沿って北上しオホーツク海に達した後、流氷を避けて太平洋北西部に移動し越冬する。次の年、1歳の春を迎えた幼魚は、より北のアリューシャン列島北側に広がるベーリング海に入るが、冬が近づくとアラスカ湾に避難し越冬する。何年かの間、餌の豊富な夏のベーリング海と冬のアラスカ湾を行き来して成長する。成熟を控えた年の春になると、アラスカ湾からベーリン海を経て母川に向かい、秋から冬の始めには回帰して産卵する。なお、サケはベーリング海から日本沿岸まで3,000km余りをまっすぐ帰ってくるが、水温・水深・地磁気などを記録できる小型記録装置を用いた研究から、海流ではなく地磁気を利用して北海道沿岸まで回帰してくると考えられると報告されている(東屋知範、『北の海から』第28号2017)。

■図1 日本系シロザケの回遊経路とホルモン遺伝子の発現。四角い枠内は年齢。
成長ホルモン(GH)とインスリン様成長因子(IGF)は成長の促進に関わる。

サケの回遊は遺伝的にプログラムされた本能行動か

サケは「本能で生まれ育った安心できる故里に、恋をするために帰る」と言われる。恋は本能行動とされる生殖行動の最初の段階、すなわち恋の場への移動と雌雄の出会いで、遺伝的にプログラムされているとされるが、遺伝子プログラムの実体は分かっていない。しかし、サケに限らず脊椎動物では、脳内の“視床下部”とよばれる部位が本能行動の中枢であり、そこに分布してニューロン間のコミュニケーションにペプチドを用いているニューロンが、行動の制御に重要である。筆者らは、母川回帰にともないこのようなニューロン内で活性化する遺伝子を明らかにすれば、遺伝子プログラムが垣間見えると考え、研究を進めてきた※2
目をつけたのは、わずかアミノ酸10個からなる生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン(以下GnRH)を産生しているニューロンであった。このニューロンが、脳内の様々な領域と下垂体にGnRHを含む神経線維を伸ばし、生殖行動に関わる神経活動と性成熟を促進する内分泌機能を同調的に制御していると考えられたからである。注目したのは、方向についての情報を統合し、定位行動を制御している視葉という部位のニューロンを、GnRHが活性化することであった。
一方、図1に示すように、視床下部のGnRH 遺伝子の発現は、回遊の前半と後半に高まる。前半の発現上昇は、未熟な生殖腺を刺激する下垂体の濾胞刺激ホルモン(FSH)細胞を、後半の上昇は生殖腺を成熟させる黄体形成ホルモン(LH)細胞を活性化する。個体によっては、すでに冬のアラスカ湾で、性成熟の開始に関わる神経系と内分泌系の遺伝子が働き始め、生殖腺が発達し始める。サケは、晩冬のアラスカ湾で、その年の秋に母川に帰り恋をするかどうかを決めているに違いない。なお、ベーリング海に入ったサケでは、淡水適応に関わる下垂体のプロラクチン(PRL)の遺伝子発現が高まるためか、ほとんどの個体が海水から淡水に移されても死ぬことはなかった。

サケは冷水性の表層魚-高水温をきらう

サケはベーリング海で夏を過ごすが、日本系のサケは、その中央部の表面水温10℃に近い海域に多い。一方、冬のアラスカ湾では、表面水温が7℃前後と高めの海域に多い。夏も冬も、日本系のサケは、ロシア系やアラスカ系よりは水温の高い海域に多いのだが、それは母川が分布域の南限だからかもしれない。とは言っても、冷水魚である。小型の記録装置を用い母川への溯上行動を調べると、表面水温が20℃近くの三陸沖(Tanakaら、1998)や石狩湾では、12℃前後の深い所にいて、時おり海面近くに昇ってくる。河川水は表層に広がるので、そこに含まれる母川の匂いを確かめようと高水温の表層まで昇ってくるのかもしれない。なお、北海道のオホーツク海側で記録装置を装着したサケが、沿岸の水温の高い海域を迂回し石狩湾まで回帰してきた例もある。

海水温の変動とサケの恋

海洋の温暖化が注目され始めたのは30年ほど前、IPCCの第1次報告書が出た頃であった。それを契機に、温暖化が海洋生物に与える影響を分子生物学的に明らかにすることを目的として、東京大学海洋研究所に海洋分子生物学部門が創設された。それに関わった筆者は、海洋環境とサケの回遊の関係を調べ始めた。すでに、遠洋水産研究所(当時)のサケ研究者は、温暖化にともないサケの分布が北に移動すると危惧していたが、それが今や現実のものになっている(東屋知範、『北の海から』第36号2019)。
海洋の温暖化は、地磁気に導かれる北洋から日本沿岸までの回遊経路には影響しないとされているが、サケの母川への溯上-サケの恋路-は沿岸の表面水温の影響下にある。黒潮が強い年は知床沖や三陸沖に暖水塊が居座る。それが、冷水魚であるサケの母川への接近を妨げるのである(図2右上)。暖水塊の手前で足踏みしているサケの体内では、性成熟がプログラム通りに進行してしまうため、なんとか母川に溯上しても、過熟状態になってしまう(図2 右下)。
気になるのは、その時、ストレスホルモン(コルチゾル)の血中濃度が高まる一方、視床下部ではストレスに対応する熱ショックタンパク質の遺伝子発現が高まることである。ストレスに対応したこのような内分泌系と神経系の働きの変調は、一般に生殖機能に悪影響を及ぼすので、そのような状態の親魚をふ化放流に用いると、サケの資質を低下させる恐れがある。人工的な採卵・採精による20億尾近くの稚魚のふ化放流の繰り返しが、恋を忘れたサケを作ると懸念する研究者もいたが、近年、母川に回帰する野生魚が少なくないことが分かってきたため、その活用も含めたふ化放流事業の見直しが進められつつある。(了)

■図2 海水温と母川回帰。平年(図左上)に比べ黒潮が強勢だと、北方四島周辺に対馬暖流による暖水塊ができる(図右上)ので、母川回帰が妨げられる。そのため、図左下に比べ右下では、性ステロイド(T)の血中濃度が産卵場手前で大きく上昇する。また、レーダーチャートも、卵巣の成熟度を示す幾つかの要因が最大、すなわち過熟状態になっていることを示している(図右下)。

  1. ※1Ocean Newsletter 369号(2015)を参照。
  2. ※2安東宏徳・浦野明央(共編)『回遊・渡り』裳華房(2016)

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