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【Ocean Newsletter】バックナンバー

第470号(2020.3.5 発行)

東アジア交易圏の中の琉球

[KEYWORDS]交易国家/港市国家/琉球
沖縄県浦添市立図書館館長◆上里隆史

東アジア有数の交易国家として成長した琉球王国は、東アジアで対外的に認知されていた国家だった。
琉球は小さな島国にすぎなかったにもかかわらず、明への朝貢を軸に中継貿易を行い、東アジアの各国・各地域の独自の外交秩序に対してうまくルールを使い分けることで、交易国家として成長を遂げている。
琉球の歴史を知ることで、日本の国際交流のヒントが見つかるように思う。

交易国家としての琉球王国

「唐船図」中の進貢船

現在の沖縄県と鹿児島県の一部である奄美諸島には「琉球王国」という独自の前近代国家が存在した。史料上に登場する名称は「琉球国」だが、これは近江国や周防国のような、日本の律令国家で定められた領制国とはまったく異なり、日本国や朝鮮国、暹羅国(タイ)のように、東アジアで対外的に認知されていた国家であった。
1372年からは中国(明)との冊封・朝貢が開始されるが、その関係は現在イメージするような属国ではなく、内政干渉の行われないゆるやかな外交関係であった。17世紀まではどの国や地域も、一度たりとも実効支配を琉球に及ぼしたことはない。
王国全域の土地は中央の首里で一括管理がおこなわれ、農地も細かく分類され国王の辞令書によって家臣への分配が認められていた。首里の王による強力な中央集権が実現していたのである。この支配は海のネットワークによって広大な海域に点在する島々にも浸透していた。また国家の運営によるアジア諸地域との海外貿易もおこない、15世紀には東アジア有数の交易国家として成長を遂げていた。
小さな島国にすぎなかったはずの琉球がなぜ交易国家として成長していったのか。その仕組みは中継貿易と呼ばれる方法にあった。琉球の交易は王府が運営する国営貿易であり、明への朝貢を軸に、中国産品(陶磁器など)を入手して日本や東南アジアへ供給し、さらに東南アジア産品(胡椒・蘇木(そぼく)(スオウ)など)や日本産品(日本刀・屏風・扇子など)を、明への朝貢に際しては附搭(ふとう)貨物(日本や東南アジアの交易品)として持参し交易する形態であった。
明は琉球に対して様々な優遇策を実施していた。前述の「朝貢不時」と称されるほどの無制限の朝貢頻度、王以外の朝貢を許可、朝貢活動を支える人材派遣、大型外洋船の無償提供などである。こうした優遇政策の理由として、明が新興国である琉球の交易国家としての成長を促した可能性が指摘されている。海禁政策にともない、公的貿易からあぶれた民間海商らが海賊化(いわゆる倭寇)して中国沿岸部の治安を悪化させていたことが当時問題となっていた。そこで琉球を有力な交易国家に育てて、彼ら民間海商を琉球の公的貿易の中に取り込み、海禁を守りながら合法的に活動させようとした、すなわち琉球を私的海商勢力の受け皿とする意図があったと考えられている。
琉球の対明通交においては、当初は実質的に那覇の華人集団が担っていた。彼ら華人は琉球の代表者として、しばしば明へ赴いた。琉球の対明外交と交易は、明朝のテコ入れによる人材派遣と、那覇に滞在する華人を活用したことによって成り立っていたといえよう。

琉球の交易活動

14~16世紀の琉球の交易活動は、明朝の朝貢・冊封体制下の優遇された諸条件を基盤として、海域世界に構築されていた民間交易ネットワークに便乗し、また港市那覇の外来諸勢力を王府が活用して進められたものであった。そして琉球は朝貢国間の関係をある程度前提にしつつも、各国・各地域の設定する独自の外交秩序に接近あるいは適合させるようなかたちで自らの姿勢を選択し、外交を行っていた。
一方で琉球は16世紀には南九州地域の各勢力に対し、自らを中心とした独自の外交秩序に、両者合意のもとで彼らを下位の存在として位置づけようとしていた。ただ各勢力の姿勢は琉球が他の大国に振る舞ったのと同じく、琉球交易の利益を得るための「従属」のポーズであった。
琉球はこうした何重にも存在していた多元的な世界秩序をそれぞれ使い分けていた。それは琉球だけが特殊な事例だったのではなく、前近代の東アジア国際関係では当たり前に見られる光景であった。こうした相手方のルールをあえて受け容れ、自らの利益につなげるやり方を、日本中世史研究者の橋本雄(北海道大学)は「我が物としての利用」という言葉で表現している。琉球王国はまさに他国の外交ルールを「我が物として利用」することで成り立つ交易国家だったといえよう。名を捨てて実を取るこの方法は、小国が他国と渡り合うための最善の手段であったと言えるかもしれない。

琉球王国の交易ルート図

港市国家、琉球

交易活動は全般にわたって、港湾都市那覇に居留する外来勢力を活用するかたちで行われた。琉球の交易活動の実態は、琉球の地元民が単独で成しえたものではなかった。外来者、すなわち琉球内の他者の存在なくして交易国家としての繁栄はなかった。それは琉球が外来勢力の傀儡だったことを意味するのではなく、琉球の現地権力と外来勢力は相互依存の関係を築いて交易活動を展開していたということである。
前近代の琉球の社会は港湾都市の那覇、附属する王都の首里が突出した都会と、その他の12世紀以来の「シマ」と呼ばれる集落を基礎とした農村社会の二重の社会であったことが特徴である。都市部には王国の政治・経済・文化的拠点の機能が一極集中しており、那覇は海域世界における国際的な交易拠点という性格と同時に、王国域内の物流の中心でもあった。港には様々な人々が集い多様な文化が融合する諸民族雑居の様相を呈し、現地権力は彼ら外来者との相互協力関係を築いて国を運営していた。こうした国の形態は、東南アジアのマラッカ王国に代表されるような「港市国家」と共通すると指摘されている。日本や中国のような陸上を中心とした大国の視点では捉えきれない側面を琉球は持っていた。
現在の日本国のなかに、港市国家の歴史を持った地域が含まれていることは、国際化を深める現代日本にも大きな示唆を与えるものと考える。だが日本を神話の時代より不変の国家の形を持つと信じ、歴史的に形成されたはずの国土の各個性を無視して観念的な一色に塗りつぶす歴史観においては、琉球・沖縄の持つそれらの歴史的ポテンシャルは見えなくなるであろう。琉球の歴史を学ぶことは単に一地方の「オラがクニ」の歴史を知ることではない。多彩でバリエーションのある豊かな日本社会を構想することにつながるはずである。(了)

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