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オーシャンニューズレター

第469号(2020.02.20発行)

ナワバリに生きる海人―日本中世の〈海の勢力〉をめぐって

[KEYWORDS]海の勢力/倭寇/海上交通
東京大学史料編纂所准教授◆黒嶋 敏

〈海の勢力〉は、国家的な海上インフラの整備に着手されない時代における航路をナワバリとして下支えする海の集団だったが、政治権力が津々浦々まで管理するようになったとき、そのナワバリもまた国家的な領海へと形を変えた。
〈海の勢力〉の歴史を考えていくことで、固定的な議論に陥りがちな領海の問題に対しても、別の観点から柔軟な見方を提供できるのではないだろうか。

海を舞台に活躍する集団

海に囲まれた日本では、歴史の場面に「海賊」や「水軍」、あるいは「海の武士団」と呼ばれる集団が登場し、海を舞台に印象的な活躍を見せている。ところが彼らの実態は不明な点が多く、つかみどころがないため、謎多き集団として語られがちである。ただし歴史学の観点から考えていくと、「海賊」や「水軍」として現れる人物が史料の中では同一の集団である場合が多い。彼らが幕府や大名などの体制側に味方し、その海上軍事力を提供して奉公に励めば「水軍」となり、逆に体制と距離を置き、自力の世界で生きていく場合には「海賊」と呼ばれるようになる。その呼称は違っても、中身は同じ集団といえるのである。
日本の津々浦々に存在し多様な側面を持つ彼らは、〈海の勢力〉と把握したほうが彼らの特性を考えやすい。彼らの、日常における生活基盤を踏まえて実態を見ていこう。

海のナワバリ

日本の中世という時代は、政治権力は分散的で脆弱なものが多く、全国規模の交通インフラを単独で整備しうるようなものではなかった。そのため維持管理が必要となる橋や港湾といった交通拠点は、地域の自助努力に委ねられており、地域の側で、通航者から通航料を徴収するのは当然のこととして認められていたのである。
つまり、陸上の道も海上の道も、中世社会では基本的に有料で、受益者負担で運用されていたといえる。国家レベルでの海上インフラの整備・維持が地域に放任されている時代においては、各地の海賊たち、すなわち〈海の勢力〉たちが点となって、それぞれの航路という線を下支えしていたことになる。日本中世の海上交通は、津々浦々の〈海の勢力〉の存在を抜きにしては成立しないものだったのである。
そのため各地の〈海の勢力〉は、ヨソモノから通航料を徴収しうるナワバリを持ち、それが彼らの生活基盤となる。そのような〈海の勢力〉がナワバリから離れることは、すなわち、生活基盤を失うことを意味しており、彼らは基本的に地域密着型のローカルな社会集団であったのである。
こうした〈海の勢力〉はローカルでありながらも、自らが支えている航路がアジアの海に繋がっていることもあり、対外的な人や物・情報に接触する機会が多かった。とくに瀬戸内海という物流の大動脈にナワバリを構えていた〈海の勢力〉の場合、必然的に海外事情にも通じていたであろうことが推測される。

〈海の勢力〉と倭寇の違い

日本列島が戦国時代に入った16世紀になると、東アジア海上の情勢も、それまでとは大きく様子を変えつつあった。その要因は二つある。まず一点目に、日本の石見銀山で銀生産が本格化したことである。中国大陸の明は銀需要が高かったが、一般民衆の海外渡航を禁じていたため、日本銀を求めた商人たちは法を破って出航しなければならなかった。銀によって火が着いた海外交易ブームに対し、それを管理・統制しようとする明の体制側との間で軋轢が激化し、大陸沿岸部では暴動や略奪が頻発するようになった。要因の二点目は、猛威を振るった倭寇問題である。
倭寇と呼ばれたのは非合法な交易集団で、日本からは銀を運び、大陸からは生糸や硝石を持ち込んだ。明という体制側への反逆者の意味も込めて「倭寇(異国である日本の海賊)」と呼ばれるのだが、その集団は国境を越えた交易が原動力となっており、その集団そのものは国家間を行き交う境界的な存在である。
これに対し、日本国内の「海賊」とされる〈海の勢力〉は、そもそもナワバリとは切り離せないローカルな存在である。この時期、瀬戸内海で台頭した村上氏の場合でも、ヨソモノからの通航料徴収を経済基盤としていることが確認される。倭寇とは経済原理が全く異なる集団であり、日本の〈海の勢力〉が組織的に倭寇に参画した可能性は低い。
もちろん、瀬戸内海という地理的条件を踏まえれば、村上氏などの〈海の勢力〉と倭寇勢力との間に物流ネットワークを介した接点は存在する。だが仮に一部の人間が組織を離れて東シナ海に飛び出したとしても、〈海の勢力〉が集団で倭寇となり飛び出していった可能性は考えにくい。明が反体制者を「倭寇(日本の海賊)」と呼んだのも事実であるが、その倭寇と、実在の日本国内でのローカルな存在である〈海の勢力〉との間には、大きなギャップがあったのである。

『倭寇図巻』部分(東京大学史料編纂所所蔵)

〈海の勢力〉の行方

日本中世の〈海の勢力〉とは、ナワバリとは切っても切り離せない社会集団なのであった。通航料を徴収し、ナワバリという地域密着型の生活基盤を確保していた彼らは、国家的な海上インフラの整備に着手されない時代における航路を下支えする存在でもあった。さらには沿岸航路がアジア諸国への航路と接続していたために、とくに瀬戸内海の〈海の勢力〉はローカルにしてグローバルな側面も持ち合わせており、その時その時の国際情勢が大きく影響していたのである。
しかしその状況は、江戸時代に入り激変する。幕府や藩によって航路の整備が進み、人々の身分も固定化することで、多様な顔を持ち合わせていた〈海の勢力〉にとっては生きにくい時代となった。なによりもナワバリからの徴収が否定され、仕組みそのものが社会から排除され、「海賊」は犯罪行為と同義語となり果てたのである。〈海の勢力〉たちは、幕府や藩の船手衆(水軍)、漁民、廻船(かいせん)商人などといった生業を得るようになり、あるいは帰農するなどして、姿を消していくことになる。
さらに鎖国政策で政治権力が津々浦々まで管理するようになると、海のナワバリもまた国家的な領海へと変質する。その前段階にある中世の地域レベルのナワバリに目を向け、さまざまな側面を持つ〈海の勢力〉を考えていくことで、固定的な議論に陥りがちな領海の問題に対しても、別の観点から柔軟な見方を提供できるのではないだろうか。(了)

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