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オーシャンニューズレター

第330号(2014.05.05発行)

第330号(2014.05.05 発行)

海底に埋もれた元寇船の発見

[KEYWORDS]水中考古学/マルチビーム音響測深/高精度・高密度音波探査
東海大学海洋学部海洋地球科学科教授◆根元謙次

大陸を支配していたモンゴル帝国は鎌倉時代中期に二度にわたり日本を襲った。蒙古襲来である。
二度目の侵略、弘安の役(1281年)は、軍船約4,400隻、兵士14万人の大艦隊が派遣されたが、伊万里湾において大暴風雨に襲われ壊滅状態となった。これまでの調査では、元寇船の発見には至っていない。
今回、最先端の機器を用いた大規模な調査を実施し、2011年、ついに海底の泥に埋もれた元寇船を復元可能な状態で発掘した。

蒙古襲来と元寇船に関する過去の調査

モンゴル帝国の皇帝・フビライ汗は海を越えて二度日本へ侵攻を図り、その一度目を文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)という。九州北部が主戦場であった。二度目の侵攻では、東路軍と江南軍という二つの軍団が朝鮮半島と中国南部から出航し、軍船約4,400隻、兵士14万人の大艦隊を編成したが、長崎県と佐賀県の県境にある伊万里湾内に停泊中、大暴風雨に襲われ、戦力の約7割が湾内で壊滅した。
戦いの様子は『蒙古襲来絵詞』の後編(弘安の役)※1に記されているが、この軍船(元寇船)の大きさが人と比較してかなり小さく描かれており、この程度の軍船で総数14万人もの兵士をどのようにして九州へ運んだのかなど、これまで多くの疑問が残されていた。
伊万里湾は面積120km2、最大水深は約60mで、台風などの暴浪時以外は非常に静穏な海域である。典型的なリアス式海岸で、江戸時代には伊万里港を拠点とした伊万里焼の交易で栄え、その後も海上交易の歴史が続いてきた。
伊万里湾における水中考古学研究としては、1980年代から90年代にかけて実施された潜水調査や当時の音響測深機器を用いた調査がある。透明度が低い海底で沈没船を目視により発見することは非常に困難で、これまで元寇船の船材や碇石(いかりいし)の存在は断片的には確認されていたものの、船体の発掘など、船の規模を知ることのできる直接的な発見には至っていない。

マルチビーム音響測深と音波探査による調査

東海大学海洋学部海洋地質グループは、元寇船の発見を目的に最新の技術を活用し、伊万里湾の全海域を対象とした調査※2を2005年より6年かけて実施した。
この調査では、まず、近年普及してきたマルチビーム音響測深機器を用い、広大な伊万里湾の海底地形を三次元的に把握した。マルチビーム音響測深とは海底に向け船の下から放射状に多数の指向性の高い音響ビームを発し、膨大な数の高精度な水深データを取得し海底地形を再現する技術である。この調査結果から、湾内の海底面上には少なくとも4隻の沈没船が識別された。しかし、その後の潜水調査によりこれらが近代の沈没船であることが判明した。そこで調査グループは、元寇船が海底面下に完全に埋まっているものと考え、海底面下の状況を把握することができる音波探査も併用して調査を進めることとした。

海底面下の探査・140点の強反射体

■図1:鷹島の位置と伊万里湾の全域にわたる調査航跡

伊万里湾の海底には沖積層と呼ばれる軟弱な泥層が発達しており、その最大層厚は40mにも達する。そこで、音波により海底面下の状況を把握するため、まず、従来型の音波探査機器を用いて湾全体の沖積層を広域に探査し、海底面下にある周囲の泥層との不調和な強反射体を全て抽出した。次に、これらの強反射体を対象として極めて指向性の高い(±1.8度)最新の高精度・高密度音波探査機器(SES2000)を用いて詳細な探査を行い、強反射体の正確な位置や形態に関する情報を収集した。
これらの調査から湾内に140点の強反射体を確認することができた。しかし、全ての反射体を対象とした潜水発掘調査を行うには数が多すぎ、調査対象の絞込みが必要とされた。そこで元寇船がどの程度の深さに埋もれているのかを推定するため、音波探査データと長崎県水中遺跡調査団による鷹島沖の海底ボーリングデータの対比を行った。この対比から、弘安の役(1281年)の時間を示す地層は沿岸部では海底面下約0.5m、沖合での平坦な海底では海底面から約1m下にあると推定された。また、沈没船の規模は少なくとも10m以上であると考えられ、この条件から外れる反射体を除外対象とした。その結果、潜水発掘のための候補点を11点に絞ることができた。

潜水発掘調査

■図2:反射体No.3の存在を示す高精度・高密度音波探査機器(SES2000)の海底面下探査データ画像

2009年、東海大学のグループが抽出した11点について、調査活動を共にする琉球大学を中心とした水中発掘班が、まず、鷹島(長崎県松浦市)南岸の神崎港の南西にある反射体No.3を対象として発掘調査を実施した(図1参照)。ここでの音波探査データには、右上から左下に傾いた海底を示す線と、海底下約1mの深度に長さ約11mの反射体が確認されている(図2参照)。しかし、この年の発掘調査では位置が南東方向に約5mずれてしまい発掘には至らず、2010年に再度マルチビーム音響測深を用いて位置決定に万全を期し、発掘調査にあたることとなった。その結果、神崎港の南西200m、水深23mの平坦な泥の海底面下約1mの深さで、船体の一部である木材群や多量の磚(せん)と呼ばれる中国製のレンガ、陶磁器が発見された。また、2011年夏に実施した発掘調査では、様々な遺物の下に、船体の一部である長さ13.5mのキール(竜骨)を復元可能な状態で発見することができた。このキールの長さを元に復元された軍船は全長約27mであり、100人以上の兵士を運ぶことができる可能性が十分あったことも明らかとなった。『蒙古襲来絵詞』の後編(弘安の役)から想像されるよりはるかに大規模なものであり、歴史的発見となった。
伊万里湾のほぼ中央、より深い位置には、前述したNo.3と酷似する反射特徴を持つ反射体の存在もすでに確認できている。しかも、その反射体の大きさはNo.3の2倍程あり、全長約50mの元寇船が埋没している可能性をうかがうことができる。
海底面下の元寇船の発見は、最先端の海底探査技術と水中考古学の連携により成し遂げた成果である。今後、より深い水深での調査や作業を行う上では水中ロボットなど海中工学分野の技術発展が求められる。また、発掘された沈没船や遺物が引き上げた場合の保存技術や保存体制を確立する必要もある。このような現状が広く認識されるよう引き続き働きかけていきたい。(了)

※1 文永11年(1274)と弘安4年(1281)の2度にわたる元寇の際、その戦に出陣した肥後国御家人・竹崎季長を中心に展開する絵巻(弘安の役の御厨海上合戦)。宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。
※2 文化庁補助事業、科学研究費(長崎県北松浦郡鷹島周辺海底に眠る元寇関連遺跡・遺物の把握と解明)による調査。総調査日数は114日、音波探査の総距離は1,522 kmに達した。

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