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オーシャンニューズレター

第305号(2013.04.20発行)

第305号(2013.04.20 発行)

神戸開港秘話~「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊~

[KEYWORDS]神戸事件/神戸開港/外交交渉
芦屋大学客員教授◆楠本利夫

1868年2月4日、開港1か月後の神戸で、備前藩兵と外国軍隊が交戦した。戦闘で死者は出ていない。勅使東久世通禧が、神戸運上所で外国側と会見し、わが国の政権交代と新政府の開国和親政策を告げ、事件を謝罪して責任者の処罰を約束した。備前藩の武士が責任を取らされて切腹した。神戸事件である。
維新政府初めての外交が神戸で行われたことと、日本の外交上の危機を救った一人の武士の死は、ほとんど知られていない。

神戸開港・大坂開市

■開港当日の神戸。手前の白い部分は建設中の外国人居留地、沖に軍艦18隻。(測量艦Sylvia号のF.J.パーマー少尉(海軍測量官)によるスケッチ。The Illustrated London News 1868.3.28号)。

神戸は1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港した。王政復古の大号令の2日前である。
開港1か月後の2月4日、神戸で備前藩兵と外国人の接触に端を発し、神戸沖に停泊していた外国艦隊から陸戦隊が上陸して備前藩兵と交戦した。いわゆる「神戸事件」である。なぜ、このとき、神戸沖に外国大艦隊が集結していたのか。どのような艦隊編成であったのか。それらを明らかにするためには、まず、神戸開港から話を始めなければならない。
安政五か国条約では、「兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)、新潟の開港と、江戸と大坂の開市」が取り決められた。条約上、「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことである。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。日本政府を代表して兵庫奉行柴田剛中が、フランス(レオン・ロッシュ公使)、イギリス(ハリー・パークス公使)、イタリア(デ・ラ・トゥール公使)、プロシャ(フォン・ブラント代理公使)、オランダ(ファン・ポルスブロック公使代理総領事)、アメリカ(ファン・ファルケンブルグ弁理公使)に、幕府外交事務・永井玄番頭の花押入り「開港・開市宣言書」を読みあげて手渡した。このとき、神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊していた。
外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつけること、式典に参加することであった。
正午、開港を祝して、外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせた。
開港8日後の1月9日、英艦隊指揮官ヘンリー・ケッペル提督が、大坂での用務を終え、沖のSylvia号に帰還するため艦載艇で川を下った。河口付近にさしかかったとき、湾内が荒れていて、艦載艇を曳航していた小蒸気艇が転覆を避けるため曳航ロープを切り離した。艦載艇は航行不能となり波にもまれ、座席高さまで浸水してボイラーが使えなくなった。凍える冬の海で海水に浸かって一夜を過ごした提督は、翌朝、救出された時、凍死寸前状態であった。2日後の1月11日、ほぼ同じ海域で、米艦隊指揮官ベル提督が、強い西風が吹き荒れる中、旗艦Hartford号の小型艇で湾内の浅瀬を乗り切ろうとしたとき、艇は転覆して提督、副官と水兵10名が死亡した※1。
神戸開港後、英艦隊5隻と米艦隊3隻が神戸を離れた。英艦隊のRodneyは1月11日、Basiliskは1月13日、Sylviaは1月15日、Cormorantは1月21日、Rinaldoは1月(出航日不明)にそれぞれ出航した。米艦隊の出航日は、Hartfordは1月21日、Shenandohは1月22日、Iroquoisは1月25日であった。その他の艦はそのまま神戸沖に残った。日本側が条約を順守するかどうかを見極めるためと、不測の事態が発生した場合、居留外国人を保護するためであった。

神戸事件 備前藩兵と外国軍の交戦

1868年2月4日、神戸で備前藩兵と外国軍が衝突した。開港から約1カ月が経過していた。
維新政府が、徳川方と疑った尼崎藩を牽制するため、備前藩に武装部隊の西宮への出動を命じた。備前藩は海路2,000人、陸路500人を派遣することとなった。陸路、西国街道を東へ進んでいた隊列が、神戸三宮神社前にさしかかった時、外国人が隊列と隊列の間を横切ろうとし、それを制止しようとした藩兵と小競り合いになった。拳銃を構えた外国人に、小隊長瀧善三郎が威嚇射撃を命じた。衝突の報を受けた英国パークス公使が、居留地南東外の海岸沿いにあった英国領事館(旧海軍操練所建物)から、沖に停泊中の艦隊にあらかじめ取り決めていた緊急信号を送った。軍艦から戦闘部隊が上陸して備前藩兵と交戦した。
備前藩責任者の日置帯刀(へきたてわき)が、事態の重大さに気が付き、藩兵を裏山へ撤退させた。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設置して日本人の通行を禁止し、停泊中の和船を拿捕した。両軍に死者は出ていない。発足したばかりの維新政府は、パークス公使から「満足な釈明がなければ、列国は交戦と認めて処理するので、日本全体の災難になるだろう」との脅迫的書状を受け取り、驚愕した。
2月8日、勅使東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が神戸運上所で外国側と会見した。東久世は、天皇親政の国書を交付して新政府の開国和親方針を告げ、外国人の今後の安全を保証することを確約して、事件の日本側の責任を認め陳謝し、責任者の処罰を約束した。神戸が新政府最初の外交舞台となった。衝突の責任を取らされた瀧善三郎は、外国側立会いのもと、永福寺(兵庫区南仲町)※2で切腹した(享年32才)。

神戸事件発生時の神戸沖外国艦隊

神戸事件発生時、神戸沖にいた外国艦艇は11隻(英8、米2、仏1)※3である。英艦隊8隻は、神戸開港後もそのまま神戸沖に停泊していたOcean、Adventure、Salamis、Serpent、Rattler、Snap、Manilaの7隻と、1月23日に到着したCockchafer(Gun vessel、砲2門)である。米艦隊2隻はOneida、Aroostockで、仏艦はLaPlace1隻である。英領事館からパークス公使が、沖の3カ国の艦隊に、事前に取り決めていた信号を送って速やかに戦闘部隊を上陸させたこと、上陸した部隊が居留地を占拠して東西に関門を設置したこと等から、外国軍は周到な準備をして神戸沖で待機していたことがわかる。
維新政府最初の外交が神戸で行われたことと、一人の武士の切腹が維新政府の外交上の危機を救った事実はあまり知られていない。(了)

※1 ジャパンクロニクル・ジュビリーナンバー 堀博/小出石史郎訳『神戸外国人居留地』(神戸新聞出版センター、1980年)pp47-48
※2 永福寺は、神戸大空襲で消失した。瀧善三郎供養碑は、百回忌の昭和44年(1969年)に栄福寺から100m西の能福寺(兵庫区)に移された。
※3 神戸事件の際、陸戦隊を上陸させた艦艇はこれまで判明していなかった。筆者は、THE HIOGO & OSAKA HERALD(1868.1.4/1.11/1.18/1.25/2.22各号)から上記11隻を特定した。

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