Ocean Newsletter

オーシャンニュースレター

第178号(2008.01.05発行)

民間外交の鑑 ~海からつながる日本とトルコの友好~

寬仁親王殿下

明治22年、オスマン・トルコ帝国の軍艦・エルトゥールル号が和歌山県串本町樫野崎沖で座礁するという海難事故が発生した。
台風荒れ狂う中で行われた樫野崎の漁民たちによる救出活動、そしてその後の手厚い支援活動が、日本とトルコの友好関係の出発点となっている。
日本とトルコの両国民の間で生まれた言葉では表現できない「絆」は、100年経過しても深まりこそすれ薄まっていない。この感動的な物語を、われわれは「民間外交」のあるべき姿として後世に伝えていかねばならない。
エルトゥールル号の海難
寬仁親王殿下
明治21年(1888年)に、明治天皇は、オスマン・トルコ帝国のアブデルハミッド二世皇帝に、大勲位菊花章頸飾並びに我が国の名産品の数々を贈られ、その答礼として、二世皇帝はオスマン・パシャ提督座乗のエルトゥールル号を翌22年、日本に派遣され、帝国の最高勲章その他の品々を明治天皇に贈呈されました。
提督は無事に日本に到着され全ての任務を恙無く果たされ、帰国の途につきます。唯、理由は今でも判明していませんが、出港が予定より1ヶ月遅れてしまいました。この為に、エ号(木造製軍艦)は和歌山沖を航海中、台風に遭遇し、不運にも串本町樫野崎の岩礁に座礁・沈没します。
609名の乗組員の内540名が殉職し、69名のみが、樫野崎の漁民達の必死の救助活動により生き残りました。
この悲惨な大事故は、即刻東京に伝わり明治天皇他の関係者の知る処になりました。
69名の生存者の保護は官が中心となり、民に於いても、上州沼田藩の家老職の血筋を引く山田寅次郎氏が、明治期に高名であった、新聞「日本」の編集者である陸羯南・福本日南両氏に呼び掛け全国区で、義援金募集を始めました。今ならいざ知らず、明治初期の段階では多分初めての大掛かりな募金活動であったと思います。5千円集めたといいますから、多分今なら概ね3千万円位ではないでしょうか。
明治天皇は御自分の為にはるばるトルコ国から遠洋航海をして来たエ号の沈没に心を痛められ、御自分の御座乗艦である金剛・比叡の2隻を69名の生存者の為にお出しになり、全員を無事に故国に送り返されました。
救援活動から始まった民間外交
これら一連の日本人の素早く且つ手厚い支援活動に、トルコ国民は痛く感動し、本事件のあった明治23年(1890年)9月16日を、「土日修好初年度」とし、平成2年両国で同時に百周年慰霊祭兼記念式典が実施されました。
私は父の代理で先方の式典に出席する為に、軍港であるメルシンを訪れました。
無事に式次第が進み、最後に儀仗兵が直立している前を通る時、私は、「メルハバ・アスケル」(今日は兵隊諸君!)と叫んだ所、兵隊達は即座に、「サ・オル!」(ありがとうとも解釈出来るし、貴方の御健康をの意にもなります。)と答礼を返したので、更に一言私は、「スィズデ・サー・オルスン!」(貴方達の健康と長寿を願う!)と叫び、後で現地の人々にあそこ迄言ってくれる人は本当に珍しいと感謝されました。
そしてこの後、突堤の先端迄歩き、洞の様な建物の中に入り、大きなゲストブックに署名をして欲しいとの事で、寬仁親王・Tomohitoと大書しました。そして妻にペンを渡して、ふと壁を見た処きれいなガラス棚に、水と土の入ったフラスコが一つずつ鎮座していました。早速質問した処、「100年前の樫野崎の漁民の人々の心温まる救出活動を永遠に忘れない為に、樫野崎の水と土を安置しているのです!」という御返事でした。
思わず、私は、「民間外交の究極の成功例がこのフラスコ瓶の中にある!」と感激しました。
クールに考えれば、救出されたエ号の水兵達は日本語はわからず、ましてや、当時の樫野崎の漁民の人々(家族を含めて)は、外国人を一人として見た事も無い人々だったでしょう。その人々が台風荒れ狂う中で、断崖絶壁を登り降りしつつ異国人69名を、多分、和歌山弁の日本語と、今でいうボディ・ラングエッヂを使って必死の思いで助けた訳で、生死のギリギリの境で、異人種同士の間で生まれた言葉では表現出来ない、「絆」が100年経過しても深まりこそすれ薄まっていない事実を見て本当に感動しました。
同行していた皇宮警察の護衛官の佐伯猛貴というスキーが上手なので長年私に付いている警部(当時)が、帰りの車のなかで、「殿下、私が皇宮の初任科の折、警察大学で大部屋に泊って訓練を受けている時、和歌山から出てきた同僚が、酔うと必ず『俺たちの先祖はトルコ人を助けてあげた輝かしい歴史を持っているんだ!』と宣うので当時は聞き流していましたが、これだったんですね!」と感極まった声で報告してくれました。
そこで私は、「当時の名簿を捜してこの事を手紙に書いてあげれば喜ぶよ!民間人の成し得る最高の二国間外交の成果になっていますよ!と書いてさ!」と言いました。
ボスポラス海峡に停泊中のエルトゥールル号

ボスポラス海峡に停泊中のエルトゥールル号

エルトゥールル号の乗組員(写真提供:中近東文化センター附属博物館)

エルトゥールル号の乗組員(写真提供:中近東文化センター附属博物館)

民間外交を後世に
串本町にあるエルトゥールル号の慰霊碑(写真提供:中近東文化センター附属博物館)

串本町にあるエルトゥールル号の慰霊碑(写真提供:中近東文化センター附属博物館)

このエ号の遭難事件には以下の美談もあります。
皆様方はイラク戦争・その前の湾岸戦争・そしてその又前のイラン・イラク戦争を憶えていらっしゃると思います。8年間位続いた悲惨な戦争でした。
この戦争の当初、テヘランに残されて帰国の方策を失った現地の在留邦人(215名)を、当時のトルコ共和国のオザル大統領がトルコ航空に、危険を顧みず日本人を助けて来る様に指示しました。トルコ航空としては他国の在留外国人が沢山居る中で、日本人だけを乗せて帰るのは大変だったらしいのですが、無事にトルコ領内に運んでくれました。生きた心地の無かった在留邦人はイスタンブール空港が間近になった時、万歳を叫んだと言います。
詩的に言うと、「海で助けてもらった恩義を空でお返しをする!」という事でしょうが、一般人にとって、「外交」という物は、「外務省:外交官」や「総理大臣や閣僚」或いは「経済界や学界の人々」が成す物と思っていると思いますが、以上書き連らねて来た、「エルトゥールル号の遭難事故と樫野崎の漁民の人々」、そして又、「親日家のオザル大統領と、トルコ航空の根性あるパイロット諸君とステュワーデス諸嬢の大救出作戦の成功」という、二つの素晴らしい物語を、「民間外交」の本当のあるべき姿として、我々は後世に伝えていかねばならないと思います。(了)

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